わたしたちの田村くん2 竹宮ゆゆこ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)不思議《ふしぎ》ちゃん |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)松澤|小巻《こまき》 「#」:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)「#改ページ」 -------------------------------------------------------        1  修道女になった。  高校浪人している。  冬コミでカートを引いていたのを見た。  引っ越した先に、なんと実の母がいたらしい。  ひきこもった。……etc.  ——これが、元クラスメート達に思わず電話で尋ねてしまった『松澤《まつざわ》小巻《こまき》の現在』についての情報だ。どれもこれもつまらない、信憑性《しんぴょうせい》ゼロの噂《うわさ》に過ぎない。  というか、甘い。 「……間違っている。どいつもこいつも、奴《やつ》を見くびっている……」  頭を抱え、もはや座っていることもできず、ベッドにぐったりと顔から倒れた。  真実を知ってしまったのは、どうやらこの俺《おれ》だけだったらしい、信じたくはなかったが、信じざるを得なかった。  松澤小巻がこの街から去って、もうすぐおよそ八ヶ月。  その間に一体なにがあったのか、今の俺に知る術《すべ》はない。  だが、とにかく、事実として、今。奴はあらゆる噂の斜め上をロケットかなにかで突き抜けて、  超能力者に、なっていた——      *** 「……それでね、晩御飯ほんとにいらないの? って聞こうと思ってドアを開いて見たらさ、ベッドに座って脂汗垂らしてウンウン唸《うな》ってるのよ。手にはハガキかなんかを持っててさ、それをじぃ〜………………っと、見てるわけ」 「ハガキ?」 「そう、ハガキ。なんていうのかしら、あれは……そう、ガマね。ガマそのもの。あのダラダラと垂れる汗、むっつり押《お》し黙《だま》った様子《ようす》、うわ〜やだやだ完全にガマよガマ」 「ガマってなに?」 「でかい蛙《かえる》。じっとり濡《ぬ》れてるいやらしい奴よ。まー、それにしても我《わ》が子ながら、あれはちょっとびびっちゃったなー。思わず声もかけそびれちゃった。昔からちょっと変な子だとは思ってたけど、なんていうか……いよいよきたか、って感じ? だいたいあのハガキってなんなのかしら。あんたはなにか思い当たることない?」 「さー? 雪兄《ゆきにい》のことだし、どうせ城とか武士とか関係なんじゃないの? おかわり!」 「はいはい。でもあんた、そろそろ急がないと朝練お迎えギャルズが来ちゃうわよ? また大盛りにする? わーっ!」  ——朝の光に照らされたリビングに、我《わ》が母親の悲鳴が響《ひび》いた。  空のどんぶりを手渡され、炊飯器《すいはんき》のある棚へ向かおうとしたのだろう。クルリと方向転換した瞬間《しゅんかん》、背後にずぅっっと前から立っていた息子こと俺《おれ》とようやく親子の対面を果たしたのだ。叫ばれた俺はただ悲しく黙《だま》り込み、母親の手から投げ出されたどんぶりは回転しながら弧を描いて宙を舞《ま》い、そして、 「……っ」  がっぽりと、だ。  俺の頭に、ヘルメットよろしく、がっぽりと被《かぶ》さった。サイズもぴったりだ。まるであつらえたようだ。  ああ——いい朝だ。 「やっ、やーだ雪貞《ゆきさだ》ったら! いつからいたの!? 起きてきたならおはようぐらい言いなさいよ! そんなところにヌボーっと突っ立ってたらビックリするじゃない!」  返事はせずにパジャマ姿のまま食卓につき、隣《となり》の孝之《たかゆき》に頭を差し出す。 「……とってくれ」 「おぅ雪兄! グッモーニン!」  ヘルメットを外してもらうと同時、プラン、と前髪から飯粒がぶら下がった。 「……月曜《げつよう》の朝だってのにおまえは元気だな。元気ついでにこの兄の髪の毛についた飯粒も取ってもらおうか」 「オッケィ! おーっとさっそく一粒ゲット! 食う!? 食う!?」  ……シャブでもやっているようなテンションだが、俺の弟は生まれたときから三百六十五日二十四時間年中無休でこんな感じなのだ。多分《たぶん》、生物としてのエネルギーが、生まれつき常人の値を遥《はる》かに上回っているのだろう。そんな瞳孔《どうこう》開きっぱなしのビンビンボーイに毛根を委《ゆだ》ねつつ、俺は静かに「……食わん」と答える。  その鼻先に匂《にお》い立つのは、かつおだし。 「ちょっと雪貞、体調《たいちょう》は大丈夫なの? あんた昨日《きのう》もおとといも死んだみたいに部屋から出てこないし、なにも食べてないじゃない。心配してたのよ?」  差し出された味噌汁《みそしる》の椀《わん》とご飯|茶碗《ぢゃわん》を受け取り、目を伏せた。 「心配などいらん。俺はどうせガマなんだから……あの醜《みにく》くてデカい、いやらしく濡《ぬ》れて生臭《なまぐさ》いガマ。車道にフラフラ迷い出ては轢《ひ》かれまくって無残な死に様をさらすあの両生類。それが俺《おれ》だ」 「あ、聞こえてた?」 「ハッ! こんなヌラヌラ濡《ぬ》れた水かきと吸盤《きゅうばん》の指では、箸《はし》だって掴《つか》むことは叶《かな》わないだろうよ!」 「……嫌味《いやみ》ったらしいわね。箸が欲しいならそう言いなさいよ」  無事に箸を受け取り、温かな湯気を立てている味噌汁《みそしる》をかき回して一口すすった。前歯に貼《は》り付く薄《うす》いワカメが、丸二日ぶりの食事となる。 「……雪貞《ゆきさだ》?」  漬物に箸を伸ばしつつ、顔を覗《のぞ》き込んでくる母親から視線《しせん》をそらした。 「あんた、本当に大丈夫? 顔色が真っ白だし、隈《くま》もひどいわよ?」 「ほとんど寝てないからな」 「えぇ? なんでよ」 「考え事があった」 「それって、週末中部屋に引きこもって、食事も睡眠もとらずに考えなきゃいけないようなこと?」  それ以上のことを話す気はない。黙《だま》ってご飯|茶碗《ぢゃわん》に味噌汁を注ぎこみ、行儀《ぎょうぎ》悪《わる》くそいつをかきこむ。飯で口をふさいでしまえ。  だが黙り込んだ俺を追い詰めようというのか、母親はおたまを持ったまま正面の席に尻《しり》を落ち着けた。 「ねえちょっと、考え事ってなによ? 金曜日《きんようび》、なにかあったわけ? ママに話してごらん? もしかして性に関すること? 性? 性?」 「グフッ!」  思わずむせかけ、危ういところで飲み下す。 「性? お茶?」 「……お、おまえなあ……朝から『性? 性?』って、どういう家庭だよウチは!?」 「遠慮《えんりょ》しなくていいのよ。男の子を産んだ時から、いつかこういう話をする日が来るって覚悟はしてたんだから」  得意げにお茶を差し出してくる母親のツラを見て思う。絶対に、ぜっっっったいに、話したくない。家族の誰《だれ》にも俺の悩みなど話したくはないけれど、特にこいつには死んでも言わん。だってデリカシー皆無《かいむ》だから!  母親を無視してひたすら口を動かし、咀嚼《そしゃく》に継ぐ咀嚼。とっとと食い終わって、早く一人になりたい。いや、そもそもリビングになど下りてこなければよかった。この俺の苦悩は、どうせおおざっぱなこいつらには欠片《かけら》ほども理解できないのだ。センシティブで、今にも砕けそうで、溶けかけの氷のようにもろく小鳥の羽根のように儚《はかな》いこの俺の心の臆病《おくびょう》な震《ふる》えは、母親を筆頭に親父《おやじ》にも兄貴にも弟にも誰《だれ》にも、絶対にわかりっこ 「あーっ、そっか! 俺《おれ》わかったよ雪兄《ゆきにい》!」 「ッ……ブホアッ!」  噴《ふ》いた。 「やっ、きたなーい! ほら、お茶お茶」 「いらんっ! たっ、孝之《たかゆき》! おまえ、なに適当なこと言ってんだよ!?」 「適当じゃないって! マジでわかったんだって! テレビでやってたもん! 俺見たもん!」 「テ、テレビで、だとぉ!?」  うん、と頷《うなず》かれてしまい、クラッ、と世界が揺れた。正気の地平に踏《ふ》み止《とど》まるのにも限界を感じる。一体テレビが、マスメディアが、この俺の苦しみをどうわかってくれるというんだ!? 「ハガキとかメールとかで、身に覚えのない出会い系サイトの請求《せいきゅう》が来ても、無視してればいいんだって! だからそんなに悩まなくてもいいと思うよん!」  ——ぶいっ! と押し付けられたVサインは、ヴァカのVに、違いなかった。 「……っ、……っ(脱力のあまり言葉にならない。ほらみろ、やっぱり誰も俺の苦悩などわかっちゃくれないんだ!)」 「ええっ!? じゃあ、やだっ、それ、オレオレってこと!? オレオレって言うんでしょ!? 雪貞《ゆきさだ》、あんたオレオレに引っかかったのね!? バカねえぇ〜!」 「……っ……っ(色々な点において限界突破。あーあー、聞こえない!)」  親子コントにわずかな精神力も尽きて、ぐったりと自室へ戻ってきた。  そして、 「……はあ……」  誘惑に打ち勝つことはできず、ベッドへ再び倒れこむ。横目で見た時計の針は、午前七時を回ったあたり。今日《きょう》は平日の月曜《げつよう》だということもわかっている。あと三十分後には制服に着替えて家を出なければいけないのもわかっている。それでも、立っていることはできなかった。  こんなにも疲れ果てた気分なのは、母親と孝之の濃厚《のうこう》なばかオーラにやられたせいだけではない。  丸まった毛布に潜《もぐ》り込み、ひしゃげた枕《まくら》を抱きかかえる。ほんのりと残っていたぬくもりは、土曜と日曜の二日分——悩みに悩んだこの週末、ずっとここでうずくまっていた俺の体温だ。  息をつき、目蓋《まぶた》を閉じた。尽きぬため息が生ぬるい。  朝日から逃れようとさらに毛布に深く逃げ込めば、そこは真っ黒に塗《ぬ》り潰《つぶ》された夜によく似た暗闇《くらやみ》になる。そして、その闇の中にただひとつ、消しても消しても浮かび上がってくるのは——  相馬《そうま》さんって、誰《だれ》?  ——そんなシンプルな言葉だった。  発端は、金曜日《きんようび》の夜に届いた一枚のハガキだ。その裏面に書き記されていた唯一の言葉が、それ。そんなものが、俺《おれ》を丸二日間、このベッドに沈め続けた懊悩《おうのう》の原因だった。  問題自体は、ごく単純だ。 『このハガキに、どう返事を返したらいいか?』——たったそれだけのこと。  だが、それだけのことが、俺にはできなかった。どうすればいいのかまったくわからなかった。週末を丸々|潰《つぶ》して考え込んでも、答えは見つからなかったのだ。  そもそも、松澤《まつざわ》がなぜ相馬のことを知っているのだろう?  このままでは冗談《じょうだん》なしに、『超能力者説』が採択されてしまう。だってその他《ほか》の選択肢といえば、『月から派遣された宇宙人スパイ説』しかないのだ。宇宙人と超能力者なら、まだ超能力者の方がありそうだ。  それから、このハガキを寄越《よこ》した松澤の真意はなんなんだ?  松澤は、俺のことなどとっくに忘れてしまったのだと思っていた。入試の時にお守りをもらって以来、松澤からは一切の連絡が断たれていたから。  やはり相馬とのことを怒っているのだろうか? いや待て、そもそも相馬と俺のことをどこまで知っているんだ?  だいたい、松澤はなぜ相馬のことを知っ……。  ……。  だぁぁもう、それはさっきもやっただろうっ! そうじゃなくて、どうすりゃいいんだっ! どう返事したら万事丸くおさまるんだっ! ああもう悩むのは嫌《いや》だ、なにも考えたくない、平安な気分で日本史資料集を紐解《ひもと》きながらベッドにねそべってゆったりと自然な眠りに身を任せたいん……いやいやいや。いやいや。ダメだいかん、逃避《とうひ》はだめだ。解決しなければ本当の安らぎは得られないのだ。そもそも俺は松澤にどう思われたいのか、それを明確《めいかく》にしなければ返事の方向性もまとまらないというか、だけどそれは松澤の気持ちにもよるというか、そもそも松澤はどんなつもりで俺に連絡をとってきたのかがわから                   (以下略)  ……という無限ループを、何回も、何十回も、もしかしたら何百回も続けているうちに、丸二日が経《た》ってしまったというわけだった。ループから脱出しようと試みるほど、さらなるループに捕らえられていくこの不可思議《ふかしぎ》……これがいわゆる思春期という奴《やつ》なのでしょうか。とか言っている場合でもなくて。 「……一体どうすりゃいいんだよ……」  文字通り頭を抱え、低く唸《うな》る。  松澤《まつざわ》よ、おまえは何が知りたいんだ? 相馬《そうま》は元いじめられっこで強がりっこでちょっと性格が悪くて乱暴者《らんぼうもの》の美人ですよ。そういうことが知りたいのだろうか。それとも、そういうことではなくて、俺《おれ》との関係性における相馬という存在のことを—— 『好きなのはいつだって、ひとりだけ……!』 「……ぬ、お、ぉ……っ!」  瞬間的《しゅんかんてき》に蘇《よみがえ》った相馬の声が、ズガーンと脳天を撃《う》ち抜いた。いたたまれないような焦るようなどうしようもない気持ちで、ベッドの上を猛然と転がりまくる。  そうだ、金曜日《きんようび》。俺は大人《おとな》の階段を上る男シンデレラとなったのだ。詳細はとても語れないが、とにかくあの夜の相馬は大胆|素敵《すてき》なエロティック小町《こまち》でした! ああ畜生、俺はなんだどうしたいんだ、ていうか今日《きょう》は相馬とどんな顔をしてなにを話せばいいんだ!? 教えてください世間一般の男女交際|経験者《けいけんしゃ》のヒト! 「学校、行くのよねえ?」 「うあぉっ!」  ドスッ、と鈍い音を立て、絨毯《じゅうたん》に墜落《ついらく》。唐突に開いたドアから声をかけられ、驚《おどろ》いた拍子に床に落ちたのだ。 「……なにやってんの? あんた、まだオレオレで悩んでるわけ? もう支度《したく》しないと遅れちゃうわよ」 「ち、違うわい……っ!」  痛みをこらえて起き上がった頃《ころ》には、すでに戸口に母親の姿はなかった。架空《かくう》請求《せいきゅう》と振り込め詐欺《さぎ》の違いについて、奴《やつ》に説明できる日は来るのだろうか?  重いため息をつき、とにかく、と気を取り直す。 「……学校、いこ」  ノロノロと部屋を横断し、制服をクロゼットから引っ張り出した。松澤が超能力を身につけようが、相馬がどんな奴だろうが、俺の悩みなどまったく斟酌《しんしゃく》してくれずに時は未来へ進むのだ。寝不足と胃痛をこの身に抱え、遅刻したくなければ支度を始める他《ほか》はない。  着替えを終え、机に積《つ》み上げられた教科書を鞄《かばん》に詰めようと手を伸ばした。その拍子、目に入ったのは、デスクライトに結び付けられて揺れるお守り。  これは松澤がくれたのだ。  そっと指で触れてみて、こいつを握《にぎ》り締《し》めて臨《のぞ》んだ入試の日を思い出す。あの頃はまだ、松澤があれっきり連絡を断とうとしていたなんて予想もしていなかった。  そして、こんな風にまたハガキを寄越《よこ》してくるなんて。 「……って、しみじみしている場合ではなかった」  お守りの揺れが止まるまで見守ってしまい、気を取り直して支度を再開する。  ——とりあえず、松澤《まつざわ》のハガキは、背を向けた机の一番上の引き出しに。      ***  遅刻寸前、危ないところで教室に飛び込んだ。  もう担任も来る頃合《ころあい》で、クラスの奴《やつ》らもおしゃべりをやめ、各々《おのおの》の席についている。真《ま》っ青《さお》な空を切り取ったみたいな窓際の席、笑顔《えがお》を向けてきたのは小森《こもり》だ。 「あっ、来た来た! 田村《たむら》遅かったじゃん! どしたの?」 「俺《おれ》のことなど気にするな! しかしおはよう!」  まさか『着替えをしている途中で再び苦悩のループにはまり毛布の中でうずくまったらそのまま失神するように二度寝しかけた』とも言えず、適当にあしらって自分の席を目指す。  鞄《かばん》を置き、椅子《いす》に座り、そして目の前の空席に気がついた。相馬《そうま》はまだ来ていないようだ。  控え目に、本日二度目の安堵《あんど》の息。ちなみに一度目は家を出てすぐ、玄関の外に相馬の自転車が迎車スタンバイしていないのを確認《かくにん》した時に。  相馬と会うのが嫌《いや》なわけではないのだ、もちろん。ただ、なんというか……どんな顔をして会えばいいのかわからない。こんなぐちゃぐちゃのままの精神状態で、俺はどんな顔で、どんなふうに奴に相見《あいまみ》えればいい。何事もなかったかのように、よぅ相馬、おっはよう! (サラリ)か? それとも、なあ相馬……朝っぱらからナンだけど……金曜日《きんようび》のこと……おまえ、どう思ってる(じっとり)……?  ——違う。どっちも違う気がする。首をブンブンと振り、一から出直し。もっとこう、うまいこと、スマートに、素直に、赤裸々に、赤裸々に……丸裸に……全裸に……お互い……はだかを……見せ合っ……。  ……。  しかしどんなに悩んでも、相馬が登校してくれば、なにか言葉は交わさねばいけないのだ。その時は必ず来るのだ。なにも考えつかない以上、運を天に任せ、アドリブで勝負するしかない。  なんとか気持ちを落ち着けようと深呼吸をしてみるが、 「持てよ……?」  次の瞬間《しゅんかん》、深く吸った息がグッと喉《のど》に詰まった。そういえば相馬は先週の木曜からずっと学校を休んでいた。まさか今週もまた休むつもりなのか? ……えぇっ!? そうなのか!? ……俺は自問自答のマッチポンプか!?  めまぐるしく息を吸ったり吐いたり、一人でおどおどしている俺はさぞかし挙動不審《きょどうふしん》だろう。しかし挙動不審はやめようとしてやめられるものではない。俺はもしかして、相馬を迎えに行った方がよかったのか? いやしかし、それってかなり『おまえなに勘違いしてんだよ、早くも彼氏気取りか? おめでてーなー!』って感じじゃないか?  落ち着かないまま身じろぎしたその拍子、 「うわっ」  机の上においていた自分の鞄《かばん》を机から落としてしまい、その音に更にビビらされて飛び上がる。運悪くファスナーが開いていて、教科書やらノートやらが教壇《きょうだん》の辺りまで散らばってしまった。慌てて拾い集めようと、席を立って腰を屈《かが》め、前進したその時。  ガラリ、と大仰な音を立て、教室のドアが開いた。  教室の床に膝《ひざ》をついた姿勢のまま、俺《おれ》はある予感に急《せ》き立てられるように、視線《しせん》をそちらへ向け、見た。  ソックスに包まれた細い足首。なぜだか汚れて、絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》られた小さな膝小僧。乱れたプリーツスカートの裾《すそ》。 「……おっ……」  生まれたてのアシカのような、しかし切羽詰《せっぱつま》った声を聞いた気がして、顔を上げた。 「お? おぉっ……!」  俺もまた、アシカ風味に唸《うな》った。  しかし妙な声を出したのは俺だけじゃない。確《たし》かにその瞬間《しゅんかん》、一瞬教室中が息を飲んだよ うに静まり返り、やがてあちこちからどよめきのようなものが湧《わ》いたのだ。  教室のドアを開け、そいつはそこに立っていた。  腰の辺りまであるつやつやの長い髪を柔らかに肩に垂らし、薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》をかすかに強張《こわば》らせ、星のように輝《かがや》く大きな瞳《ひとみ》を蕩《とろ》けそうに潤《うる》ませて、相馬《そうま》広香《ひろか》はそこに、しっとりとしたオーラの光を背後にしょって、足を踏ん張って立っていたのだ。  いつにもまして眩《まぶ》しいのは、その瞳の煌《きらめ》きのせいだろうか? それとも髪の輝きのせいか、火を灯《とも》したみたいに光る肌のせいか?  ちゃんと登校してきたな、とは思うものの、言葉にならない。挨拶《あいさつ》もできない。俺は相馬を見上げていることしかできない。  だってなんだか今日《きょう》の相馬さん……すごく、なんていうか…… 「お、お、お、」  ……どもってるっていうか…… 「お……おはよ、田村《たむら》。なにやってんのよ、朝っぱらからそんなところに座り込んで」  ……フン! といきなり鼻息を荒くしてそっぽを向きつつ、顔の色が真《ま》っ赤《か》にほかほかとのぼせ上がっていくというか……黒板を睨《にら》みながらこっちに歩いてくるけど、その足の下に俺の教科書が落ちてるっていうか……それを踏んだら滑って危ないっていうか…… 「きゃあっ!?」  ……踏みやがった。  ずっ、と滑った相馬の足は俺《おれ》の目の前で宙に浮き、スカートの裾《すそ》がヒラリとめくれあがり、俺の目の前に白い布地に包まれた丸い尻《しり》が迫り—— 「ぐえっ……!」  瞬間《しゅんかん》、下りてはいけない幕が下り、見てはいけないスタッフロール的なものを見た。  かばおう、などと殊勝な気持ちがあったわけではない。この時の俺にはそんな心の余裕など一切なかった。ちなみに言うなら尻が目当てだったわけでもない。  相馬が、勝手に、俺の上へ、落ちてきたのだ。それが断頭台とか延髄斬《えんずいぎ》りとか呼ばれる体勢だったのは、運が悪かっただけなのだと信じたい。  やがて「あ、間違えた」と脳内で小さな田村《たむら》くんが呟《つぶや》いてものすごい早さでスタッフロールが巻き戻り、幸運にも幕が再び上がり、 「……う、ぐぅ……」  うめき声が、出た。そして、 「ご、ごめん、田村!」  腹ばいになって潰《つぶ》された俺の首に跨《またが》るというすごい姿勢のまま、相馬が謝罪《しゃざい》を口にした。事故なのだから仕方ないさ、と言ってやりたいが、返事はできない。もっと端的にいうなら、息ができない。いいから早くどいて——また幕が下りちゃう! 「きょ、今日《きょう》さ……あの……む、迎えに行かなくて、ほんっと……ごめんね!」  そっちかい! ああっ、怒鳴《どな》れない! 忌々《いまいま》しい! というかそこの小さな俺《おれ》、ニヤニヤ笑ってないでそのスタッフロールを止めろ! おいこら、幕を下ろすなぁっ! 「今朝《けさ》は寝坊しちゃって、髪の毛やってたら時間ギリギリになっちゃって、それで急いでガーッて自転車|漕《こ》いで来たんだけど校門のところで車に轢《ひ》かれかけて思いっきり転んじゃって、膝小僧《ひざこぞう》がホラ、すりむけて、だからあたし、」  相馬《そうま》は壊《こわ》れかけのレディオのようにペラペラペラペラしゃべり続け、「あいつら朝からなにやってんだ?」という周囲の呟《つぶや》きも耳に入らないようだった。 「こう、前輪《ぜんりん》が、ズザーって、なんていうの? ジャックナイフ?」 「……う、ぅ……」  遠くなりかける意識《いしき》をかき集め、うすらぼんやりと思い出す。相馬のドジの下敷きになるのも、そういやこれで二度目だったか。  ……なにもかもみな、懐《なつ》かしい…… 「ふぉっふぉっふぉ」 「……なにがおかしいんだ」 「笑ってるんじゃないよーバルタン星人の真似《まね》だよーふぉっふぉっふぉ」  明るい日差しが差し込む保健室の真ん中で、両手にはさみをもっておどけている白衣姿のバカは、ここの主《あるじ》——俺が勝手に「青い果実」と呼んでいる保健の先生のバカだ。二十代……だとは思うが、持ちネタの古さから年齢《ねんれい》不詳の熟《う》れ熟《う》れ熟女《じゅくじょ》である可能性も捨てきれない。 「一年B組、田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》くん。おめでとう、君が新入生の中では保健室利用回数第一位よ。だからバルタンでお祝いしてあげる。足首の捻挫《ねんざ》に、貧血、捻挫の悪化、それで今日が……」 「顎《あご》の擦《す》り剥《む》けだ」 「イエイ擦過傷《さっかしょう》」  ビュ、と消毒液を俺の顎に吹きかけ、青い果実はニッコリ笑った。どうやら今朝は本当に、上機嫌《じょうきげん》な果実らしい。 「いやー今日は愉快な日だわ。寝坊して職員会議《しょくいんかいぎ》に遅れて、超あせってたら車で相馬さん轢きかけて、本当にどうしようかと思ったけど」 「……なんて奴《やつ》なんだ……」  顎先に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》ってくれながら、青い果実は至近距離《しきんきょり》、色の薄《うす》い瞳《ひとみ》をニィと細める。 「その後、転んだ相馬さんをここに連れ込んでね、治療《ちりょう》してあげながら聞いちゃったのよねー」  その笑《え》みと、からかうような口調《くちょう》。なんとなく、嫌《いや》な予感。そして悲しいことに、俺の予感は当たって欲しくない場合に限ってたいてい当たる。 「な……なにを……?」 「へっへ! やるねえ!」  青い果実はボスッと俺《おれ》の肩を一発どつき、そしてニヤニヤと囁《ささや》いたのだった。 「田村《たむら》くん、うまくいっちゃったんでしょ? 相馬《そうま》さんと」 「そ——」  ——楚《そ》。春秋《しゅんじゅう》戦国《せんごく》時代、中国南方(現在の湖南省《こなんしょう》・湖北省《こほくしょう》)で大きな勢力を持った王朝の名。ちなみにその頃《ころ》わが国では、吉野《よしの》の山中で道に迷った神武天皇《じんむてんのう》が、八咫烏《やたがらす》に道案内されて大和入りを果たしていた——『日本書紀《にほんしょき》』より。 「……はっ!? ここは!?」  我に返って傾いた体を立て直す。いかん、思わず三千年分の時空の旅に出かけてしまった。いやしかし、なんですなあ、神武天皇がこんなに気さくなお方だったとは…… 「ごまかしてもダメよ、もう聞いちゃったからね。いやーよかったよかった。もしかして私のアドバイスが功を奏したってわけ? 私保健の先生やめて、恋愛カウンセラーとかになっちゃおうかなあ? 本とか出してテレビ出ちゃったりして〜……あれ? おーい田村くん?」  ……え? なになに? 足を崩せって? いやあなにをおっしゃる神武天皇、まさか俺ごときがあなたの前で……あなたの…… 「田村くん、寄り目になってるよ」 「そ、そそ、相馬が」  ……神武天皇の……相馬の……俺の……松澤《まつざわ》の……超能力の…… 「う、うう、うまくいったと言っていたのですか」 「なーんか、顔色悪いわねえ。隈《くま》に肌荒れ、目の充血、唇の血色不良……もしかして、寝不足?」 「ボ、ボボ、ボクのことになどこれ以上かまわないで下さい、一人で生きていけますので」  じゃ、この辺で——頭を下げてみせ、へっぴり腰で丸椅子《まるいす》から立ち上がった。探るような青い果実の視線《しせん》、しかし逃れるように身を捩《よじ》る。  神武天皇は大和へ去った。そして俺も、ここから去りたかった。いっそ十五分の道のりを自宅へと駆け戻り、自分の部屋の十年ものの毛布の中へ逃げ込みたい。あの暖かな暗闇《くらやみ》の中で丸まって、このことをもうちょっと考えたい。そうして気持ちを整理《せいり》したい。そうでなければ、なんというか……壊《こわ》れてしまいそうだ。耐えられそうにない。  異様にリズミカルな心臓《しんぞう》を押さえ、逃げるように戸口へ向かうが、 「待ちなさい、お若いの!」 「ぐえ!」  襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、動きを封じられる。 「……その様子《ようす》……ははーんさては……うまくいっちゃった美少女との今後のあれやこれやを夜も寝る暇ないほどむらむらと妄想し……」  なるほど、と納得した様子《ようす》の青い果実のツラを思わず見返した。  今後のあれや、これや、だと?  あれや=今日《きょう》ね、うちの両親、帰ってこないんだ……。  これや=もしよかったら……泊まって、いかない……?  そのままたっぷり三秒間、あれやとこれやの因果関係について考え、その結果を模索し、そして、なんというか、婦女子の方からそうやって大胆に誘ってもらえたら俺《おれ》のような奥手男子としては大層ありがたいのだが、 「……じゃないっ! なに言ってんだ————!?」  悲鳴を上げた。  ああいやだいやだ、こんなデリカシーのない女は本当にいやだ! ……ん? こういう女を俺は一人、すでに知っている気がするぞ……? はて、あれは…… 「あらいいのよ、私こう見えても保健の先生なんだから、そういう相談《そうだん》だって仕事のうちです。思春期の少年の性欲と罪悪感の関係ってのは何百年も前から語られ続けてる今もホットなトピックなわけで、オナ」 「キャア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」  再び叫ぶ以外にこいつの口を封じる手段を思いつかず、叫びも叫んだり十五秒。俺の声は伸びやかなテノールで天へ。青い果実は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて不意に老《ふ》け顔へ。 「……せっかく親身になって相談に乗ろうとしてるのに……白目をむいてまで叫ばなくても……」 「いっ、いらんわーっ! だいたい俺と相馬《そうま》は、」 「俺と相馬は?」 「……っ」  しまった、と口をつぐんだ時にはもう遅かった。青い果実はわざとらしく腰を屈《かが》め、俺の表情を覗《のぞ》き込みながらゆっくりと正面へ回り込んでくる。俺はもしや……罠《わな》にかかったのか? 「あららぁ? 相馬さんは『うまくいった』って言ってたけど……見解の相違があるのかしら?」  じんわりと手の平に、嫌《いや》な汗が滲《にじ》み出す。飲み込みかけた言葉の先は、正直に言えば自分でもわからない。  俺と相馬は——一体なんだと言おうとしていたのだろう。俺と相馬は——相馬は——松澤《まつざわ》は——俺は—— 「なーんか、隠してるでしょう。あやしいな、田村《たむら》くん」 「……あ……う……ぐ……」 「あうぐ?」  至近距離《しきんきょり》から見つめる青い果実の視線《しせん》。 「あうぐってなによ?」  逃げ場のない密室。 「ほら、続きは?」  追いつめられてゆく壁際《かべぎわ》。 「あうぐの次は、なんなのよ?」  ——だから——だから、だから、その——俺《おれ》は——俺は、だから、だか、だ、だ—— 「……だぁっ! ほっ!(放っておいて!) もっかっ!(もう構わないで!) か———っっ!(勝手なことばっかり言わないでっっ!)」 「わっ、壊《こわ》れた」  何百回目かの思考のループに捕らえられそうになって、がむしゃらに声を上げていた。無茶苦茶《むちゃくちゃ》に首を振り、腕をブン回し、目を丸くしている青い果実のテリトリーから、いや、ループ型の己《おのれ》の思考から、必死に我《わ》が身を引《ひ》き剥《は》がす。その勢いのままドアをバン、と開け、ヤケクソ半分に振り返った。 「おまえなんかに俺のプライバシーを暴《あば》かれてたまるか! 職権濫用《しょっけんらんよう》やじうま保健医め! ちなみになあ、俺はおまえによく似た女を思い出したぞ!」 「え!? だれだれ!? やだあもう田村《たむら》くんったら……女優系《じょゆうけい》? アイドル系? それって外人? セレブ?」 「うちのおかん(43)だよ!」  ドアから駆け出す瞬間《しゅんかん》、苦しげに顔を歪《ゆが》めて崩れ落ちるが如《ごと》く片膝《かたひざ》をついた青い果実の姿が目に入った。息子としては複雑な心境ではありつつ……ざまあみろ!  と、言いたいところだが、しかし。 「ほっ! もっかっ! か———っっ!」  ……という叫びを再び上げてしまうまで、時間はそう長くかからなかった。  物理の授業があったのだ。出席番号順に作られた班には、俺と相馬《そうま》が席を並べていたのだ。登校拒否属性をもつ相馬のノートには前回の授業で作ったデータ表が記入されておらず、教師はそれを覗き込むなり、 「今日《きょう》の放課後《ほうかご》にでも、誰《だれ》かにノートを写させてもらいなさい。説明してもらいながら記入していけばやり方はわかると思うから」  などと相馬をそそのかし、相馬も相馬だ、 「わかりました。……こっ、」  一度|咳《せ》き込んだ鶏《にわとり》のようにどもり、しかしすぐに『クールな相馬さん』の体勢を立て直すと、 「この人に見せてもらいます」  と俺《おれ》を迷いなく指差したのだった。  驚愕《きょうがく》のあまり俺は奇声を上げ、教師は「静かにしなさい!」と俺を叱《しか》り、班内の他《ほか》の男どもの視線《しせん》は「なんで田村《たむら》なんだよ」と冷たく突き刺さり、女子どもは「相馬《そうま》ってマニアックだよね」などと気味悪そうに肘《ひじ》をつつきあった。  そして相馬は、そんな騒《さわ》ぎなど一切意に介す様子《ようす》もなく、 「……そーいうわけだから、よろしく。今日《きょう》の放課後《ほうかご》、だって」  つん、と意味なく偉そうに、そっぽを向いて見せたのだった。しかしゆるゆると顔を伏せ、最終的に、 「……えへ」  と小さく笑う。誰《だれ》にもばれていないとでも思っているのか、長い髪に隠した横顔を赤く染めて、さりげないつもりの手で口元を覆《おお》い、本当に小さな小さな声で。  ——どうしよう。  全身を、嫌《いや》な汗が脂っこく伝った。いわゆるガマ状態という奴《やつ》だ。身体《からだ》は強張《こわば》り、喉《のど》は塞《ふさ》がれたように重く痛み、頭の中は猛スピードでグルグルグルグルと混乱し始める。ちなみに胃まで痛くなる。二度とあのデリカシー皆無《かいむ》の保健室には行きたくないのに、しっかりしてくれ俺の体。  嫌なわけではないんだ本当に。いや、嫌なのだけど——相馬が嫌なわけではない。ただ純粋に、どうしよう、と思っていた。困っていた、と言うのが正しいかもしれない。  どうしよう。  放課後、俺と相馬、二人きり、会話。……そう、会話。ずっと懸念《けねん》されていた問題が、ここにきて、ついに表面化したというわけだ。  どうしよう、どうしたらいいんだろう。俺は相馬になにを話せばいいのだろう。「うまくいった」と青い果実に語ったというこの相馬に、俺はなにを話すつもりなのだろう。  そしてもうひとつ、考えずにはいられないのは——もしも松澤《まつざわ》からハガキが届いていなかったら、俺はこんなにも、悩むことはなかったのだろうか、と。  もっと素直になんの衒《てら》いもなく、相馬の前で、相馬のように、照れることができたのだろうか——      *** 「……ねえ、聞いてる?」 「えっ!?」  ガバ、と顔を上げた拍子、机の上からペンケースを取り落とす。床に散らかったシャーペンを見下ろし、 「あーあ畜生……またやった……」  唸《うな》るように呟《つぶや》かずにはいられない。今朝《けさ》から何度同じような失敗をすれば気がすむんだろう。登校してすぐ鞄《かばん》を落として、授業では板書中にチョークを落として踏み砕き、昼休みには自販機《じはんき》前で小銭をばらまいて—— 「……変な田村《たむら》……」 「そうです。私が変な田村です」  座ったまま身体《からだ》を曲げて筆記用具を拾い集め、勢いをつけて起き上がる。そして、 「……じー」  髪をかきあげ、頬杖《ほおづえ》をつき、俺《おれ》をまっすぐに見ている美少女と目が合ってしまった。 「なっ」  ——言葉に詰まったのは、俺の言葉を乗せた息が、相馬《そうま》の前髪を揺らしたのに気がついたせいだ。なんとなく口元を覆《おお》い、下を向く。 「……んですか……?」 「見てるの。じー」  至近|距離《きょり》、といっていい距離だった。  相馬は椅子《いす》を回転させて黒板に背を向けて座り、俺の机にノートを二冊広げ、真向かいの間抜けの顔を文字通り「じー」っと見ている。  わざとらしく眇《すが》められた薄《うす》い目蓋《まぶた》。頬に影を落とす、長い睫《まつげ》。夕焼けの教室にたった二つ、なにかの間違いで落ちてきてしまった星みたいに、きらきらと透けて光る瞳。  綺麗《きれい》としか表現のしようのない、相馬の目。  その球体があまりにも完璧《かんぺき》なカーブを描いているせいで、作り物のようにさえ思えてしまうが、 「今日《きょう》の田村、変よね。……いつも変だけど、今日は特に変」 「……すいません」 「……やっぱり、変」  迷ったみたいに揺れる様子《ようす》で、やはりこれは生身の婦女子の目なのだといまさらのように理解する。  相馬は手にしていたシャーペンを置き、居心地《いごこち》悪そうに薄《うす》い唇を小さく歪《ゆが》めてみせた。そしてしばらくの沈黙《ちんもく》を置いてから、そっぽを向いて小さく呟く。 「……二人きりなのに、なんでそんなに……なんで、しゃべってくれないの?」 「は? ふたり、きり?」  意外な言葉に、思わず小さな目を見開いた。  ついさっきまで後ろの方で騒《さわ》いでいた奴《やつ》らがいたはずだが——首をめぐらせ、初めて気がつく。俺《おれ》と相馬《そうま》以外の人類がいないのだ。  俺が一人で悶々《もんもん》とガマ化している間に、俺と相馬は放課後《ほうかご》の教室で二人きり空間を作り出していたらしい。その静けさに気がついてしまった瞬間《しゅんかん》、 「……うっ……」  発作だ……! 胸を押さえ、顔を歪《ゆが》めてみる。助けを求めるように相馬に片手を伸ばしてみる。しかし相馬はむっつりと押《お》し黙《だま》り、俺の相手をしようとはしない。やがてそっぽを向いたままで、 「さっきからずっと話しかけてるのにボーっとしてるし……」  ぽとり、と寂しげな声を落とすのだ。おどけようとした俺の手は空しく宙を掻《か》き、気まずく膝《ひざ》の上に戻され、 「……あたし、なにか……したかな……?」  後悔とともに、制服のズボンを握《にぎ》り締《し》めた。薄々《うすうす》感じてはいたけれど、やはりふざけている場合ではなかった。おずおずと発せられた相馬のその言葉に、首を振って答える。 「ば、ばか」 「……あたし……ばかなの……?」  今にも萎《しお》れてしまいそうにしょんぼりと項垂《うなだ》れた相馬の目の前で、さらに大きくかぶりを振る。 「違う、そうじゃなくて、ばか、おまえはなにもしてない、っていう意味のばかだ今のは」 「……じゃあさ、しゃべってくれないのはなんで? ……今日《きょう》の田村《たむら》は、あたしのことをずっと避けてるよね」 「えっ……や……そんなことは……ない……かな……?」  椅子《いす》の背もたれに身体《からだ》を預け、相馬は口をへの字に、眉毛《まゆげ》はハの字にしてみせる。 「そんなことはあったよ。お昼休みはどこかに消えてたし、他《ほか》の休み時間も……気がついたら、席にいなかったし。……全然話せなかったじゃん」 「だって、それは——」  それはなにを話したらいいかわからなかったんだもん! とも言えず、 「……それは、おまえだって……同じじゃないか。俺は今日、おまえに話しかけられた記憶《きおく》はないぞ」  女々《めめ》しく相馬に責任をなすりつけてみる。が、 「それはなにを話したらいいかわからなかったんだもん!」  ダン! と机を拳《こぶし》で叩《たた》き、相馬はやけっぱちのように俺の言えなかったあけっぴろげな言葉を口にしてみせた。そして、 「だってだって、金曜日《きんようび》は、あ、……あんな風に、別れたし……あたし、あたしその……は、」  口をパカ、と開けたまま相馬は一瞬|機能《きのう》を停止し、 「……恥ずかしかったんだもん……!」  早口で、それだけを。見て分かるほどに、必死に。そして思い切り顔を背け、小鼻を少し膨《ふく》らませ、歯を食いしばって黙《だま》り込んだ。  その首筋に、その頬《ほお》に、鼻の先に、目元に、かわいそうなぐらいに真《ま》っ赤《か》な血色《ちいろ》が上っていく。相馬《そうま》は顔面を真っ赤に染めたまま、耐え切れなくなったのか、息を詰めて固く両目をつぶる。  そんな痛々しい相馬を救う方法はただ一つで—— 「お、俺《おれ》も……その、同じだ」 「……え?」  貧乏揺すりを止められなくなりながら、ガチガチの喉《のど》を無理やりに動かしてもう一度、もっとわかりやすく繰《く》り返す。 「俺だって、恥ずかしかったんだ! なにを話せばいいかわからないから……んああっ」  はい、限界!  溶けそうになる頭を抱え、奇声を上げながら目を閉じた。なにをお互いに恥ずかしさ告白をし合っているんだ。俺と相馬はなにをやってる、なにをしようとしてる、どこへ行こうとしてる!  悶絶《もんぜつ》の沈黙《ちんもく》を噛《か》み締《し》めたまま一秒、二秒、三秒が経《た》って、 「……ん?」  ゆっくり解いた視界に、柔らかくうねる髪の束が目に入ったのに気がついた。  机の上に、それはゆるやかなカーブを描き、 「……えへへ……」  机の上に身体《からだ》を倒し、広げたノートに片方の頬をくっつけるようにして、俺を下から見上げている相馬へたどりつく。  のけぞって逃げることもできない距離《きょり》。とっさに目を逸《そ》らすことさえできない距離。 「ほ、ほ、ほ、」  ほ、のたびに、頬の温度が一度ずつ上がっていくのがわかるが、己《おのれ》ではもうどうすることもできない。ちなみに、田中《たなか》邦衛《くにえ》の真似《まね》でもない。 「ほ……ほっぺたに、えんぴつの跡……つくぞ……」 「いいよそんなの」  居眠りの姿勢で、相馬はぺったりと身体を伏せ、さっきよりもずっと側《そば》から、俺を静かに見つめていた。かすれるぐらいにひそめた声も、この距離からなら聞き漏らすことはない。 「……田村《たむら》は、あたしを……」  ゆっくりとした瞬《まばた》きが俺の目を奪い、そして唇が柔らかに、 「……好き?」 「すっ——」  死ねる。  さらりとそんな考えが頭をよぎり、息の根が止まった。心臓《しんぞう》を鷲掴《わしづか》みにされたような胸苦しさが俺《おれ》を襲《おそ》い、顔からは炎が噴《ふ》き出し、血管を一気に逆流していく熱《あつ》い血潮《ちしお》の音が耳の中に激《はげ》しく轟《とどろ》く。全身の血という血が沸騰《ふっとう》し、俺の身体《からだ》は制御を失い、 「すっ、すっ、すっ……」  脳貧血寸前の緊張《きんちょう》状態で、何事かを口にしようとしたそのとき。  カターン 「っ……」  空気が凍りついた。いや、俺が凍りついた。  なんだ。今の音は、一体、……まさか。まさか、まさか……  ——相馬《そうま》さんって、誰《だれ》? 「……ぃぃひぃぃぃぃぃぃっ!」  いらっしゃいましたー! 「え? な、なに? 田村《たむら》?」 「うろたえるな小僧ーっ!」  うろたえまくり、椅子《いす》を蹴《け》り倒して立ち上がる。左右|確認《かくにん》、足元、天井《てんじょう》も確認、相馬《そうま》の無事も指差し確認。 「え? え? 小僧? ……あたし?」 「ばかやろう、ふざけている場合ではない!」  ピボットターンで周囲を警戒《けいかい》、見られてる見られてる見られてる……どこだどこだどこだどこだどこだ……あっ……あぁっ……おああああっ! 「うわあああ————っ!」  俺《おれ》の絶叫に、相馬が飛び上がった。 「ええっ!?」 「こ、黒板、消し、が……っ」  相馬の背後、俺はそれを発見したのだ。誰もなにもしていないのに、黒板消しが教壇《きょうだん》に落ちている。今の物音はこれだったらしい。……こわい。こんなこと、ありえない。おかしい。落ちるわけがないじゃないか。だって誰も触っていないのだから——ああそうさ、超能力でも使わん限り、落ちるわけがないんだよぉ! 「えぇ? ……な、なによもう驚《おどろ》かせないでよ、あれが落ちただけじゃない」  命知らずの特攻野郎・相馬は、なんとも恐ろしいことに、席を立ってそいつを拾いに行こうとしている。なんてばかなんだ、それは勇気じゃない、無謀《むぼう》というんだ! 「よ、よせっ! やめとけ、危ないぞっ! 近寄るな! 戻れ! ほーらほらほら相馬ちゃん、いいこいいこちっちっちっち、ハウス!」 「……田村の方がよっぽど危ないんだけど」 「だーっ! 触るな、だめだ、いかーん!」  って言っているのに歩みを止めようとしない相馬は一体なんなんだ!? のれんか!? 馬の耳か!? 糠《ぬか》なのか!? 俺は釘《くぎ》か!?  ええいままよ……! 心の中で念仏を唱え、相馬を引き戻そうと腕を伸ばしたそのときだった。  チャリーン 「ぬあああぁぁぁっっ!」 「なに!? た、田村! 寄り目、寄り目! こわーい!」  またまた異音! 怪異! 超能力による遠隔|監視《かんし》! 松澤《まつざわ》、おまえ、すっげえなあ! 「相馬《そうま》ぁぁっ!」 「ぎゃー! ……じゃなくて……な、なに!?」 「ここは俺《おれ》に任せて帰れ! 振り向くなよ、俺のことなど捨てていくがいい! ……出《い》でて去《い》なば〜……主なき宿となりぬとも〜……軒端《のきば》の梅よ春を忘るな〜……」  ——鎌倉《かまくら》幕府《ばくふ》三代将軍・源実朝《みなもとのさねとも》、辞世の句である。 「は、はあっ? ちょっと本当になんなの!? っていうかあんた、まずは落ち着いて小銭拾いなさいよ、ポケットから今こぼれたよ!」 「俺になど構うなと言っている! 行け、行くんだ! さあさあさあさあさあーっ!」 「やっ、ちょっ、田村《たむら》っ! やめてよ!」  ここにいては相馬が危ないのだ。松澤《まつざわ》は今、己《おのれ》の心の均衡《きんこう》を欠いて力をコントロールできなくなっている。俺は必死で相馬に鞄《かばん》を持たせ、つっぱり、うっちゃり、教室からグイグイと押し出そうと戦った。が、 「田村ってば、痛いっ! もう……やっ、めっ、てっ、……よーっ!」 「ぅっふ!」  ——一年B組・相馬|広香《ひろか》、渾身《こんしん》の張り手である。  などと思っている間に、少年は空を飛んだ。  気がつけば、情けなくも、仮にも男子であるはずの俺が、みじめに床にしりもちをついていた。やっ! と口元をそっと押さえる。……ど、どうなの、これ……。 「一体、なんなの!? あたし、なにかした!?」  怒声にビクリと身体《からだ》が震《ふる》える。肉体的に敗北するとなぜだか精神まで卑屈《ひくつ》になって、仔犬《こいぬ》のように相馬を見上げるが。 「その……だから、さっきも言ったように……」 「してないよねえ!?」  ずーん……と目前に聳《そび》える相馬……いや、相馬さんは、今にも巨大化しそうだった。塾長《じゅくちょう》と呼んで頼ってみたいド迫力だった。しかし塾長は俺に怒りをぶつけていて、さらに恐ろしいことに、火を噴《ふ》くような猛々《たけだけ》しい視線《しせん》が次第に永久凍土を吹き渡る風のように温度を下げていき、 「……田村……」 「ひぃええぇぇ……」  ゴォォ————ッ、とツンドラのブリザード。  アーモンド型の大きな瞳《ひとみ》は太古の時代の呪《のろ》いの石のごとく煌《きらめ》きながら俺を睨《にら》みつけ、ことさらゆっくりと言葉を紡ぐ小さな唇は怒気を孕《はら》んでめくれあがり、薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》は毒薬の釜《かま》をかき混ぜる魔女《まじょ》の興奮《こうふん》でひきつっていた。  総合するに、美人が怒ると、本っっっ……当に恐ろしい形相《ぎょうそう》になる、と。 「……あたし、こういう悪ふざけ、すっごく嫌いなの。一応聞いてあげるけど、理由があるなら説明、してくれる? ……ううん。田村《たむら》が説明したいなら、『させてあげる』」  俺《おれ》が極上のマゾの人ならば、このまま歓喜の絶頂を迎えて昇天していたに違いない。しかし俺は並レベルのマゾの人でさえなかった。 「せ、説明……って……言われても……」  立ちはだかる相馬《そうま》の前にみっともなく座り込んだまま、口ごもることしかできない。だって、どう説明すればいいのか、こっちが聞きたいぐらいなのだ。  松澤《まつざわ》から突然ハガキが来て、どう返事したらいいのかわからなくて、超能力かもしれなくて、どこから見ているのかもわからなくて……本当にどうなってるんだよ!? なんだこれ! ねえ、なんなの!? などと言っている場合でもなく—— 「説明しないわけ。理由なんかないんだ」  ——絶対零度の最終通告。 「……すいません……」  殺さないで……小さな瞳《ひとみ》を目いっぱい開き、俺は相馬を見上げる。 「田村の——」 「ひっ」 「ばかぁ————っっ!」  たっぷり一息分の酸素で思いっきり叩《たた》きつけられたのは、ストレートな罵声《ばせい》。返す言葉もないままに、俺はしばし精神的サンドバッグと化す。 「ばかばかばかばかばかばかばかっ! 真剣に話したかったのに……スペシャルばかっ! ウルトラばかたれっ! ……ついでにトンチンカン!」 「あうっ……」  物理的|衝撃《しょうげき》に耐えるべく本能的に身を丸めてはいたが、懐《なつ》かし風味の罵声から心を防御するのは忘れていた。  そして相馬は、そのまま勢いよく踵《きびす》を返す。スカートがめくれあがってなんといいますかいわゆるパンツがちらりと見えたが、喜んでいる場合では絶対になかった。  バン! と扉が閉ざされて、一人教室に取り残される。  無言の扉を眺めて床に座り込み、怒りを見事に表現した相馬の足音が廊下を去っていくのを聞き、 「そうです……私が……ばかな田村、です……」  自分の馬鹿《ばか》さ加減にあきれ果てたのは——たっぷり一分が経過した頃《ころ》。  がっくりと項垂《うなだ》れ、己《おのれ》を罵《ののし》る言葉さえ浮かばない。  なにをやっているんだ、俺は。  相馬はあんなにかわいかったのに、あんなに素敵《すてき》な奴《やつ》だったのに、素直でまっすぐで綺麗《きれい》で、俺にちゃんと向き合おうとしてくれていたのに……俺はなんだってこんな馬鹿な真似《まね》を。……なんだって相馬《そうま》に張り手なんかを。  まさか俺《おれ》は本当に、本当の本気で真剣に、松澤《まつざわ》超能力者説を信じているとでも言うのか。だとしたら……悩みすぎて、ノイローゼにでもなりかけているんじゃなかろうか。 「……ああ……もう……っ」  無人の教室に座り込み、頭を抱えて低くうめいた。薄暗《うすぐら》い静かな空間で、次第に見えてくるのは己《おのれ》のずるさの輪郭《りんかく》。  俺はつまり、色々なことが「わからない」というのを盾にして、松澤には相馬のことを言えないし、相馬には松澤のことを言えないのだ。  いや……言わない、のだ。 「でも……だって!」  これはもしや、世間的には叱責《しっせき》される態度なのではないだろうか。そして、 「だって……わかんないんだから、仕方ない、じゃないか……っ」  ——俗に、二股《ふたまた》、と呼ばれたりするのでは、ないだろうか。        2 「……なるほどなあ」  フムフム、と電話口の向こうで、小学校時代からの親友が頷《うなず》く気配《けはい》を感じた。ああ、やっぱりいざという時頼りになるのは高浦《たかうら》だ。 「そうなんだよ、おまえならわかってくれると思った……」  しみじみと呟《つぶや》く俺は、セクシーな湯上りスタイルで通話中。パンツ一丁でしどけなくベッドに寝転がりつつ、冷えてしまった肩にタオルをかけ直す。  ここまで二十分ほどかけて、相馬と関係が進展した件、その夜に届いた松澤からの超能力レターの件、悩んだ挙句に曖昧《あいまい》な態度を相馬に見せて怒らせてしまった件を、順を追って説明していたのだ。 「今まで一人で悩んでたから、おまえに話せて楽になれた……感謝《かんしゃ》してるぜ、親友」  百%本気印で、少々臭いセリフを口にする。ああそうだ、初めての精通の時だって、やっぱりこうやっておまえに相談《そうだん》したんだったな。あの時おまえが正しい知識《ちしき》を教えてくれなかったら、俺は危うく泣きながら母親に保険証を出してもらい、これこれこういう症状が出たから病院に行くと言い張るところだった。  本当に、おまえがいてくれてよかったぜ……おまえに相談して、俺は救わ 「でも田村《たむら》が悪いんじゃん? これだからモテたことのない奴《やつ》がたまにモテると問題なんだよな〜、おまえマジで身の程ってモンを知りなさいよ、どんなイケメン気分で三角関係気分に浸ってやがるわけ?」  ……さらなる深みに叩《たた》き落とされたよ。 「そ、そんなこと言うなよ……」 「いや、言わせてもらう。そもそもなんで松澤《まつざわ》というものがありながら、相馬《そうま》さんと『関係が進展した』とか言っちゃってんだ? それがおまえの大好きな『いざ鎌倉《かまくら》』とかいう心境なのか? どういうつもりなんだ?」  珍しく正論《せいろん》で俺《おれ》を責める高浦《たかうら》に、返す言葉もなく項垂《うなだ》れた。確《たし》かに俺は迷子だ——鎌倉の方角を見失っている。 「……すいません」 「俺に謝《あやま》ったってしょうがないだろ。まあなんだ、その件は同窓会で松澤とじっくり話し合ってみるんだな。……って言いたいところだったけど、残念だよなー。松澤、来られないなんて」 「……ん?」 「ん?」 「な、なに?」 「なにが?」  唐突に、俺と高浦の時が止まる。主に俺の時が。  同窓会? 松澤? 残念? ……え?  高浦が口にしたキーワードのうち、理解できたのは「松澤」だけだ。 「だ、だから、なんだ? 今の」 「ん? 聞こえなかったか? ……電波悪いのかな。もしもーし、もしもーし! もーしもーしっ!」 「い、いやいやいや、ちゃんと聞こえてる、そうじゃない。今、おまえ、言っただろ。松澤がうんたらで残念がどうしたとかって。それってなんだ? 俺はなにも理解できてないぞ」  、、、、……としばしの沈黙。そして、 「あっ」  忘れてた、と高浦は軽快に笑った。……こいつ。 「俺、その話しようと思っておまえに電話するところだったんだ。そうしたらおまえから先に電話が来て、エキサイティングな話を聞いているうちに言うのを忘れてた。今週の水曜日《すいようび》、3Bの同窓会やりまーす。場所は北口の『おれのこえ』。今回は担任は抜き。カラオケだけどまあ個室予約したし、歌いたい奴《やつ》は歌え、飲みたい奴は飲めって感じで」 「それはまた……急なお誘いで」 「それがさあ、おまえ知ってた? 松澤の進学先って陸上の全国クラスの強豪校なんだって」 「……はあ……?」  話についていこうと必死に脳みそエンジンをかけるが……だめだ、メカニックを呼んでくれ。 「ほら、オリンピックのマラソン選手とかも輩出《はいしゅつ》してる……なんつったっけ、こないだメダルとった、あの……」  高浦《たかうら》が挙げた陸上選手の名前は、ニュースなどでもおなじみで、インドアタイプの俺《おれ》でさえ顔と結びつけることができた。確《たし》かに有名なオリンピック選手だ。その母校となればそりゃあ……いや、そういう問題じゃなくて。 「で、今週の水曜《すいよう》、隣町《となりまち》にサッカーの試合とかやってるでかい競技場《きょうぎじょう》あるじゃん。あそこでなんか高校陸上のでかい大会があって、こっちに帰ってくるんだってさ。中学の陸上部に松澤《まつざわ》の記録《きろく》の問い合わせがあって、在校生の子が出場を知って、うちのクラスの元部員たちに話が伝わって、それで松澤の帰郷に合わせて急遽《きゅうきょ》同窓会だ! って盛り上がったんだけどさあ」 「……」 「でも松澤に連絡してみたら、水曜日の夜はこっちに宿泊で、戻るのは翌日なんだけど、ずーっと部員全員|拘束《こうそく》されてて、特に一年生は自由行動なんてできる雰囲気じゃないんだって。で、あの口調《くちょう》で、『……せっかくなのに……ごめんなさい……』……って言われてしまった。でもまあ、もうセッティングしちゃったし、松澤はいないけどこの機会《きかい》に集まっとくか、ってことで。参加するよな?」 「……」 「田村《たむら》やーい。参加するだろ?」 「……はぅ」 「はい、田村参加、まる、と」 「そ、そうじゃない……」 「はい、田村不参加、ばつ、と」 「そうでもなくて……そ、そんな場合では……ない……っ」  あまりに新情報が目白押しで、俺は今にも失神しそうだった。特技でもある超時空旅行に出発寸前だった。  だって……陸上強豪校? オリンピック? 競技場? 大会? ……こっちに、帰って、くる? 俺はなにも……なにも……ていうか……なんだ、これは、つまり——つまり松澤の気持ちはこういうことか?  松澤「……せっかくなのに……ごめんなさい……田村くん……恨みます……」 「田村?」  松澤「……ちなみに……相馬《そうま》さんて……誰《だれ》……?」 「あっ! あ、あぁ! はぁンっ」 「ちょっと……どういうつもりで電話口でセクシーボイスを上げてるわけ?」  思いっきり嫌《いや》そうな高浦の声に、身体《からだ》を跳ね起こして悶絶《もんぜつ》しながら噛《か》みついた。 「だって……だって……っ! お、俺、なにも知らなかったっていうか、松澤の進学先だって今初めて知ったっていうか、あまりにも唐突な情報だらけで整理《せいり》する時間が必要っていうか……はっ……もしかして、松澤《まつざわ》が同窓会に来ないのは俺《おれ》のことを避けてるからなんだろうか!」  ありえない、ことではない。ブルリと震《ふる》えた。 「……ああっ、そうだ、きっとそうなんだ、部活でどうこうなんてのは嘘《うそ》なんだ! 俺が嫌いで、俺と相馬《そうま》のことを怒って、それであいつは同窓会に来ないんだ! なんて奴《やつ》なんだ、あの不思議《ふしぎ》サンタ! マラソン弁天《べんてん》! 夢色パティシエ! そもそもなんなんだよ超能力ってぇ〜! 本当の本当にそうなのかよ〜! 反則だろそんなの〜!」  びえーん、とジタバタ暴《あば》れながら喚《わめ》くが、 「……はあ? 超能力?」 「そうだよ超能力だよ! だってそうでもなけりゃ松澤が相馬のことを知ってるわけなんかないだろ!? おお恐ろしきことだ、なんたることだ〜!」 「ああ、それ俺俺」  まあ、そういうことだから。ってことで。同窓会のことよろしくね。  ——高浦はそう早口で言って、そそくさと会話を終わらせようとした。  した、のだが。  ジタバタ暴《あば》れていた足をピタリと止め、俺は操《あやつ》り人形のように身体《からだ》を起こす。 「……あのー……高浦?」 「なに? なんか俺うんこしたくなってきちゃったから手短にな」  手短に……済むかなあ。高浦、無事に、便所に行けるのかなあ。……ねえ、行けるの? 「ちょっと、お聞きしますけど……今の、なに?」 「なにってなにが?」 「だから、その……俺俺、ってやつは……」 「んー? だからあ、松澤に相馬さんのこと教えたのが俺なんだって。電話して、田村《たむら》に近づく怪しい女がいるけど放置でいいわけ? って」 「……ん? なに? ちょっと、もう一回言ってみて?」 「ええ? なんだよもうしつこいなあ、俺が言ったの! 松澤に相馬さんのことを! おまえが電話で相馬さんの話をしただろ? あの後、俺もちょっと気になってさあ。ほら、なにしろ田村と松澤を応援する会の会長だから」 「え? 聞こえないんだけど? なに?」 「ボケ爺《じい》ちゃん化するなって。いやー、まあしかし、松澤にそのことを問いただすようなガッツがあるとはなあ。話をした時には『……え? ……え? ……ぽえ?』ってぽえ〜っとしてたから、聞いてるのか聞いてないのかもわからなかったけど」 「え、あのあの、ちょっと、もう一回言って? なに? 全然わかんない? 電話? なんで?」 「……俺が松澤に電話したらそんなにおかしいか? その時以外にも電話ぐらいしたことあるよ? そもそも最初は、卒業アルバムに松澤《まつざわ》の写真や文集なんかも載ってたじゃん。それを担任が松澤にも渡してやれ、っていうんで、委員長である俺《おれ》が、クラスを代表して送ったの。送るときに時間指定とかあるかなーと思って電話してみたりして。そんなに特殊なこととは思わないけど」 「……おまえ……おまえ……」  目眩《めまい》。頭痛。絶句。……放心。 「なに?」  ……そうだ、忘れていたのだ。  高浦《たかうら》という男が、常軌を逸したヤジウマ男だということを。  ああそうだ。まさしく、常軌を、逸しているんだ。常軌を。『普通』のラインを、踏み越えているんだ。思い出せ、高浦はクラス全員分の恋愛関係相関図を網羅し、持ち歩いていたような並外れた変態だったではないか。  俺って奴《やつ》は、俺って奴は、なんでこんな奴に話したりなんか—— 「なー田村《たむら》、俺ちょっとほんとに腹が痛くなってきた。下りそう。ま、その辺の話はまた同窓会でってことで。じゃーなー!」  ——プツ。ツーツーツー…… 「……き、切れた……」  隊長ー! スパイを発見いたしましたー! よーしよくやったー! スパイは捕らえたのかー! いーえ、家でうんこしてまーす! 「……ていうか……なに、これ……」  子機《こき》を手に、真っ白な世界に取り込まれていく。ああ、あそこで手を振っているのは神武天皇《じんむてんのう》だ。またお会いできましたね。え? なぜ武士なんかが一時《いっとき》とはいえ国を掌握《しょうあく》したのかって? そりゃああなた、時代ってもんです。まーこの二十一世紀の日本では、シビリアンコントロールという概念が幅をきかせてますがね。  ところでボクからも聞きたいことがあるんです。ええとその、松澤はつまり、超能力者なんかではない、ということでいいんですかね? あ、いい? それで、OK? はあ、なるほど、さすがは含蓄あるお言葉で……でも、ということはですよ? 「超能力じゃないなら、奴はつまり、超正気で、俺に聞いている、と……」  ——相馬《そうま》さんって、誰《だれ》?  その言葉は、妄想の靄《もや》の中から現実感という確《たし》かな輪郭《りんかく》を伴って浮かび上がり、急速に感情という温度を持った。  だけど俺にはそれが熱《あつ》いのか冷たいのか、まったく判断できない。いよいよますます、松澤の気持ちが理解できない。俺のことを覚えているのか? つまりおまえは相馬に嫉妬《しっと》しているのか? それならどうして手紙をくれなかった? 俺はすっかり忘れられたんだと思っていたんだぞ?  せめて超能力者の異星人のままでいてくれれば『意味不明』のひとことで、決断の彼岸《ひがん》から遠く離《はな》しておくことができたものを。あれが一人の普通の婦女子からの質問状となれば——事態はさらに、深刻だ。  しかもそんな松澤《まつざわ》が、もうすぐ隣《となり》の町にやって来るという。  陸上の大会なんて俺《おれ》にはまったく関係ないけれど……まったく接点はないけれど……しかしすぐ側《そば》に、近いところに、行こうと思えば行けるところに、帰ってくるという。  どうしよう。  いや、どうしようもこうしようも、もちろん大会なんて学校では授業をしている時間にやるのだろうし、泊まる場所だって知らないし調《しら》べようもないし、行くなんてそんなだいそれたこと考えはしない。  しない、けれど。  ……けれど。 「お、おや……?」  はあ、はあ、と唐突に激《はげ》しい己《おのれ》の呼吸に気が付いた。これではまるで変態か犬のようではないか。しかし、どんどん呼吸は荒くなっていく。止められないのだ、息が苦しくて、気が付けば激《はげ》しく喘《あえ》いでいる。 「……く、くるし……っ!」  息を吸えば吸うほど息苦しくなり、開きっぱなしの口はカラカラと渇き、目の前はグラグラと揺れ、凄《すさ》まじい酸欠の目眩《めまい》が襲《おそ》い掛かる。苦しい、ちょっと待て! これは本当に苦しい! すごく苦しい! 「なっ、なんだ、これ……た、たすけ……っ!」  ベッドから転がり落ち、床でのたうつ。吸っても吸っても酸素が足りない、脳は靄《もや》がかかったよう、指先は氷のように冷たく、背中は経験《けいけん》したことのない痛みにきしみ、肺はむなしく膨《ふく》らみきってこれ以上の空気を受け付けてくれない。死ぬかもしれん、これは死ぬかもしれんぞ!?  エ、エマージェンスィ————————!  ——なぜだか資料集でお馴染《なじ》みの聖徳太子《しょうとくたいし》の顔をした神武天皇《じんむてんのう》が、暗いトンネルの向こうから、俺をじっとりと手招いたのを見た気がしたんです。  あの世への玄関口で見る夢としては、あまりにシュールすぎる気がするんですが、どうでしょう。      *** 「えっ……!?」  俺《おれ》を冷たく無視しようとしたのか、プイと通過しかけた相馬《そうま》の視線《しせん》が、しかし信じられないものを見たように驚愕《きょうがく》の色を浮かべて俺の顔面へ戻ってきた。  チュンチュン、とのどかな声ですずめの歌う初夏の朝。光溢《ひかりあふ》れるのどかな教室。笑いさざめく生徒たち。おはよう、いい朝ね、朝飯なに食った、俺メザシ、私パン、田村《たむら》なにやってんのかな、知らね——これでも一応、自覚はあった。 「た、田村……? なに、それ……」  朝の爽《さわ》やかな教室で、俺は、浮いていた。誰《だれ》もが俺を意識《いしき》しながら、しかし誰もが遠巻きに俺を見守っていた。いや、後ろ指を差していた。  昨日《きのう》あれだけ怒らせた相馬塾長をして、声をかけずにはいられないほど、俺の姿は滑稽《こっけい》なのだった。 「……よお、相馬。……俺に話しかけてくれるのか……」  声を出すとその振動で、ビリビリと顔の下半分がこそばゆい。  簡単《かんたん》に言えば、ボクは今、茶色《ちゃいろ》のよくあるタイプの紙袋を、顔面に装着しています。袋の口を開いた状態で鼻と口を覆《おお》うように顔の下半分にかぶせ、袋の口の縁《ふち》に開けた二ヶ所の穴に輪《わ》ゴムを通して、それを両耳にかけて固定しています。紙袋のくちばしをつけた怪鳥、とでも言えばわかってもらえるでしょうか。 「ふ、ふざけてるの……?」  前の席に座るのも恐ろしい、といった風情《ふぜい》で、相馬はそろそろと椅子《いす》を通路に引き出して、俺からうんと離《はな》れて腰かけた。 「俺はいつだって真剣勝負だぞ。これはまあちょっと事情がね……過呼吸に、なってしまってね……」  俺はうっそりと返事を返すが、声のほとんどは袋の中で反響《はんきょう》し、顔に伝わる振動となってこの世の果てに消えていく。もわん、と籠《こも》る、暖かな呼気が情けない。 「過呼吸? ……あんたが? なんで?」 「知らん。昨日の夜突然にな……。一応収まったと思っていたが、今朝《けさ》登校して来たら、校門の前でまた発作が起きた。倒れこんだところを上級生が見つけてくれて、保健室に運ばれてしまった……」 「じゃあその袋は、蜂谷《はちや》先生が?」 「……誰だそれは」 「なんで知らないのよ、さんざんお世話になってるくせに。保健の先生でしょ」  ああ、そんな名前だったのか——あの悪魔《あくま》の毒毒果実は。いい、知らん、あんな奴《やつ》は果物呼ばわりで十分だ。  あのどぐされフルーツ、保健室に運ばれた俺《おれ》を見るなり、「あらまーいけない、過呼吸だわ! こういうときは紙袋……あったあった、コンビニで買いにくいものを買ったときに入れてもらった奴!」……一体なにを買ったんだ、というかそもそもそんなことアピールせんでいい! と喚《わめ》く暇もあらばこそ、奴はそれを俺の口に当てた。とりあえずそのときは、確《たし》かに症状が改善したのだ。自分の呼気を吸うことで、こんなに簡単《かんたん》に楽になるとは思わなかった。問題はその後だ。「田村《たむら》くん、発作起きたら苦しいよね。その恐怖感がまた発作を呼んじゃうこともあるのよ。だから、これをしばらくつけているといいわよ。ほら、ここをこうしてこうすれば……あひゃっひゃっひゃー!」——昨日《きのう》の仕返し、なのだろう。 「……ちょっと奴とは感情の行き違いがあってな……」 「……い、嫌《いや》なら外せば?」 「……嫌だが、具合がいいのは確かなんだ……恐るべし青い果実。ずっと装着してられるから、発作が起きたらどうしよう、という恐怖感も薄《うす》れるし、なにより紙袋の匂《にお》いって……なんかちょっと……」  いいよね……スゥー。 「……あっそ」  呆《あき》れ返る、というよりは、関《かか》わりたくない、という表情で呟《つぶや》くと、相馬《そうま》は俺に背中を向けて席につき、鞄《かばん》を机に置いた。そして背中を向けたまま、 「……そんな紙袋くっつけてて、食べられるかどうか知らないけど」  おもむろに腕を背中に回し、ニュッ、と俺の前に手を突き出した。その手には、 「昨日のこと、あたし怒ってるんだからね。ああいう冗談《じょうだん》は好きじゃないの。だから……」  前にも見たことのある、チェック柄の四角い包み。 「……一緒《いっしょ》には、食べないから。でも今のうちに渡しとく。実は昨日も持って来てたんだけど渡しそびれちゃったからさ……そんなのどうでもいいけど」  背中を向けたままで頑固に呟き、しかし耳は見事に真《ま》っ赤《か》に染め、その包みを——弁当箱を、机の上にコトリ、と落とした。 「あ……」 「チキンライス。ミニハンバーグ。ニンジンとアスパラのソテー。デザートはキウイ。……ハンバーグ、ちゃんとお肉こねるところから作ったから。おいしいよ」  その包みを両手でそっと抱え、俺は—— 「あ、りがとう」  俺は。  それ以上の声も出なくなって、その温度を手の中で確かめた。顔に装着した紙袋がグシャグシャに潰《つぶ》れるのも構わず、弁当箱を抱くように体を丸めた。まだ温かい。チェックの包みからは花のような——相馬《そうま》の部屋の香りがする。さらにその中から匂《にお》い立つのは、夜からの作りおきなんかじゃなくて、今朝《けさ》作って焼いてきたんだろうと思わせる、香ばしいハンバーグの食欲をそそるいい匂い。 「……田村《たむら》?」  この手に抱いた弁当箱は、こんなにも温かい。とってもいい匂いで、この中身は全部|俺《おれ》のもの。俺だけの、俺のための、おいしいもの。  それがすべてだという気がする。これだけでいい気がする。  だけど、だけど、でも、 「どしたの? ……具合悪いの? え、もしかして……昨日《きのう》あたしが怒ったせい?」  床を引きずる椅子《いす》の音。相馬が振り返った気配《けはい》。心配そうにひそめられた声。違う、と必死に首を横に振るが、しかし顔を上げられない。  この鼻先にはふわふわと、理解できない松澤《まつざわ》の気持ちが漂っている。捕まえられない。匂いも影《かげ》も気配もない。しかし確《たし》かに、ここにある。ここにあって、俺はそれを、どうしたらいいのかわからないまま放っておいていて—— 「あっ、先生来たよ……田村! 田村ってば!」 「きりーつ! 礼!」 「あら? 田村くん、どうしたの、始業時間よ? ……寝てるの?」 「……いえ」  担任の声に、ゆっくりと立ち上がった。顔を前へ向け、 「……起きてます」  ブーッ! と、盛大に吹き出しつつ、のけぞって笑い崩れる担任の姿が見えた。 「あ、あなた、ふざけてるのっ!?」 「……ふざけて、ません」  ふざけてなんかいるものか——紙袋を顔にはめたまま、窓の外へと視線《しせん》を逃がした。  なかなかわかってもらえないけれど、俺はいつだってふざけてなんかいないんだ。  クラスの他《ほか》の奴《やつ》らも、担任につられてあちこちで笑いを抑えきれなくなっている。だけど俺は、いつだって、本気でいるんだ。わかってもらえないことが多いけれど、俺はそれほど冗談《じょうだん》のうまいタイプではないんだ。いつだって本気なんだ。  それなのに——わからないことがたくさんあって。見えないものもたくさんあって。  誰《だれ》かを、傷つけて。  知らんうちに、嫌われているかもしれなかったりする。  うまくいかないことばかりだったりする。  俺はいつでも空回り。  置き去りにされてただ立ち尽くし、窓の向こうは、真《ま》っ青《さお》な空。雲ひとつない、見事な快晴。  この空の下に、明日《あした》、奴《やつ》はやってくる。言葉の通じない異星人が、この空の下を走りにやってくる。周回軌道上を漂う衛星《えいせい》に乗ったエイリアンが、この地球に——地上にいる間抜けな置き去り男に、最接近するのだ。ぶつかることもできないくせに、無駄《むだ》に距離《きょり》だけを縮《ちぢ》めて。  もしも俺《おれ》もおまえのように電波を飛ばすことができるなら、おまえに聞きたいことは山ほどあるよ。おまえの声が、気持ちが、聞きたいよ。整理《せいり》したい気持ちも、山ほどあるよ——だけど。  残念ながら俺は、エイリアンではないんだ。飛ぶためのロケットも、うさぎの耳さえも持っていない。近づくだけじゃ、だめなんだ。  松澤《まつざわ》。  おまえはそのことを、知っているか?  クシャクシャに潰《つぶ》れた紙袋は早々に役に立たなくなり、午前中のうちに、酸欠になりかけながらむしりとってゴミ箱行きになっていた。  そして、昼休み。  小森《こもり》と橋本《はしもと》とともに教室の隅で広げた相馬《そうま》の弁当は、本当に見事だった。小森は「っちょ————うまっそぉぉぉおおおっ! うーわ、くっそ、なにぃ? もう、田村《たむら》なんなのぉ!? それちょうだい!?」大騒《おおさわ》ぎしながら強引に箸《はし》で弁当箱に襲《おそ》い掛かろうとし、橋本も「これ、相当手が込んでるよな。相馬さんも一緒《いっしょ》に食えたらいいのに」と、相馬の姿を目で探す。相変わらずクラスから孤立状態の相馬は、昼休みのチャイムを聞くとすぐに自分の弁当箱を持ってどこかに消えていた。青い果実には心を開いているようだから、保健室ででも食っているのかもしれない—— 「……田村?」 「あ?」  唐突に横顔をツン、とついたのは、橋本の箸の先。気味悪く濡《ぬ》れた頬《ほお》を拭《ぬぐ》い、正当なる抗議《こうぎ》! 「汚いなーもう、なにすんだよ!」 「おまえこそ、なにボーっとしてるんだ? やっぱ変だぞ。今朝《けさ》の紙袋は笑ったけど、そういうんじゃなくて……昨日《きのう》からなんか上の空っていうか」 「え? ……そうか?」  頷《うなず》いてみせる橋本のメガネに映る自分の顔を、思わずじっと見つめる。そうだろうか? 俺《おれ》はぼーっとしているだろうか? 上《うわ》の空《そら》だろうか? 「……そんなこと、ないと思うけど」  メガネに映る俺の顔は、いつもと変わらない地味なツラに見える。がっかりするほどいつも通りの、つまらない男。  それ以外のものは、なにも見えない。      ***  いつもと変わらぬ眠れぬ夜を過ごし。  いつもと変わらず起きられない朝を迎え。  いつもの通りに登校した、水曜日《すいようび》。今日《きょう》の夜には同窓会があり、それから……どこぞの競技場《きょうぎじょう》で陸上の大会が開かれる。  朝っぱらから二時間ぶち抜きの美術をやって、英語があって、そして午前中の最後の授業が始まろうとしていた。俺《おれ》はいつもと変わらない教室で、いつもと変わらない授業の準備をして、教師が現れるのを席について待っていた。  なにげなく見た時計は、十一時四十分を差したところ。頬杖《ほおづえ》を突き、進む秒針を目で追う。その規則正しいリズムは、まるで俺を置き去りに軽やかに駆けていく誰《だれ》かの背中を見ているようで—— 「……いかん。ぱっ、ぱっ、ぱっ!」  おもむろに奇声を上げながら、両手で頭の上の妄想をかき散らした。不穏《ふおん》な気持ちになるような妄想はしてはいけない。その妄想がさらなる妄想を呼んで、マイナスな気持ちが増幅していってしまう。だからそんな時には口で「パッパッ」とか「ビリビリ!」とか言いながら、浮かんだ妄想を破いたりどっかへ押しやったりしなければいけないのだ。  ——と、昨日《きのう》立ち読みした『ストレスとの付き合い方〜クヨクヨばかりが能じゃない〜』に書いてあった。 「……『やるべきことをやってから悩もう』」  小さくそう呟《つぶや》き、ポケットの中の紙を取り出しておもむろに広げて眺めてみる。言っておくが、ノイローゼではない。これもやはり昨日立ち読みした『悩みからザクザク金のなる木!』に書いてあったのだ。悩みがループしてしまうようなら、自分に「やるべきことは他《ほか》にある」と宣言してから、別のことに着手しよう、その後で悩みたいなら悩みなさい、と。 「フゥ〜……はぁあああぁぁ……フゥ〜……はあぁぁぁぁ……」  金のなる木! に書いてあった基本の方法、腹式呼吸を実践しながら確認《かくにん》するのは、プリントアウトして持ってきた、同窓会の詳細を知らせる高浦《たかうら》からのメールだ。  このところメールチェックもろくにしていなかったことを思い出し、登校前に受信してきたのだ。幹事の携帯番号も書いてあったから、ちゃんとこうして持っておこうと思って—— 「もー! ちょっとってば!」 「うわっ」  突然、広げていた紙を奪い去られる。驚《おどろ》いて顔を上げると、 「さっきからずっと呼んでるのに!」  至近|距離《きょり》、むすっと口をへの字にして、振り返ったポーズで相馬《そうま》が俺《おれ》を睨《にら》んでいた。暑くなってきたせいかジャケットを脱ぎ、シャツの袖《そで》を肘《ひじ》の辺りまでまくりあげて、晒《さら》された細い手首の白さが目を射る。 「……え? 俺を? ……気がつかなかった」 「田村《たむら》って言ってるのに、なんかブツブツ呟《つぶや》いててさ。気持ち悪いったらなかったわよ。……これ、なに?」  相馬は俺から取り上げた紙に目を落とした。 「『三年B組同窓会のお知らせ』……ふうん、中学の同窓会やるんだ? 今日《きょう》?」 「そうらしいな」 「らしいな、って自分のことじゃん。……なんだ。それなら今日の夜、田村は忙しいんだね。……なーんだ……」  口の中でモゴモゴと呟きながら、相馬はプリントアウトした紙片を俺の手の中に押し込んで返す。そして長い髪をうっとおしそうに指でとき、サラリとまとめて片方の肩に流し、 「……いいな、同窓会」  ボソ、と小さく囁《ささや》いた。少なからず驚《おどろ》いて、思わず相馬の大きな瞳《ひとみ》を見返す。中学時代、あれだけ悲惨な目にあっていたというのに、そんなふうに思えるものだろうか。 「うらやましいのか? ……おまえも行きたいの? ……それは成長なのだろうか、それとも無謀《むぼう》な蛮勇……」  悩む俺に相馬は違う違う、と首を振って見せ、 「自分のところのなんか死んでも行きたくないって。いいな、っていうのは、その同窓会。田村のクラスの奴《やつ》。……きっと楽しいんだろうな、田村と一緒《いっしょ》だったら」  独り言のように呟いて、かすかに俯《うつむ》き小さな笑《え》みを浮かべた。  しかし。 「……一緒でも、今は離《はな》れちゃった奴もいるよ」 「え?」  俺の言葉に、再び視線《しせん》を上げる。  問うような表情には答えないまま、俺は心の中だけで繰《く》り返す。今は離れてしまった奴もいる。同じ空の下に、この空のすぐ下にいるはずなのに、声も、気配《けはい》も、吐息も、匂《にお》いも——  ね、田村くん。  ——俺を呼んだときの表情も。  今はなにも思い出せないほど、遠いところに行ってしまった奴もいるのだ。  松澤《まつざわ》小巻《こまき》。  松澤《まつざわ》は今頃《いまごろ》競技場《きょうぎじょう》のグラウンドを、あの軽やかな足取りで走っているのだろうか。同じ空の下にいる俺《おれ》のことを、少しは思い出したりしているのだろうか。相馬《そうま》のことを考えて、悩んでいたりするのだろうか。それとも不実な俺を、憎んで、嫌っているのだろうか。あのハガキの返事が俺から来ないことで、余計に腹を立てたりしているのだろうか。でもそれは最初に松澤が——ああ。またループしている。小さく息をつき、目を閉じる。わかっているんだ、詮無《せんな》いことだと。  だけど、やっぱり止められない。消し去れない。  考えるまい、と努力をしても、完全に消し去ることはできないまま、俺は永遠にこんなループを続けていくのかもしれない。  本当のことは、なにもわからないまま。 「……よく、わからないけど」  相馬の声に、顔を上げた。  細い指で退屈そうに、広げたままの俺のノートの端をたどりながら、相馬は呟《つぶや》く。 「離《はな》れてしまって、それでそんな顔をするんだったら、会いに行けばいいんじゃない? ……あんた、すごく欝《うつ》な顔してたよ。今」 「……は?」  あまりにも簡単《かんたん》に言ってのけた相馬の顔を、思わずじっと見返してしまう。  相馬は俺の視線《しせん》にひるむことなく、強い目で——俺の反応を試すような目をして、唇をチロリと薄《うす》い舌で湿らせて言い募る。 「だってそうじゃん。それとも会えない理由でもあるわけ? ていうか、それって、」  一旦《いったん》息を継《つ》ぎ、 「……女の子、だったりして」 「いや……それは、別に……ていうか……男、ですけど」  あっ……俺、今、嘘《うそ》をついている……。  相馬は俺の嘘に気が付いたのか付かないのか、ふーん、と呟き、興味《きょうみ》があるようなないような。それでいて、 「その人、死んだわけじゃないんでしょ?」  そんなことまでサラリと言うのだ。死んだっておまえ……ひくわ! 「な、なんて不謹慎《ふきんしん》なんだ……そりゃまあ、生きてるけど」 「なら会いに行けばいいのに。死んでないなら会えるでしょ。その離れてしまった距離《きょり》が『心の距離』と同じかなんて、会わなきゃわかんないよ。同じぐらい離れてるかもしれないし、本当は離れてないかもしれないし、もしかしたら、本当の距離は離れてなくて、心だけが離れているのかもしれないじゃん。あたしいいこと言ってるね、今」  心の、距離。 「……にしても、先生遅いね。もう授業の時間、十分も過ぎてる」  ——俺《おれ》と松澤《まつざわ》の距離《きょり》は、本州の半分の距離。それは、俺の家と、松澤の家の距離。それから、およそ三ヶ月という時間の距離。それは、松澤が手紙をくれなくなってからの距離。  そしてバスを乗《の》り継《つ》いで、十五分。……今の、今日《きょう》の、松澤がいる競技場《きょうぎじょう》とこの学校の距離。  そして、それから——心の距離は。  それを知るには。 「はい、ちょっと注目ー! 私語はやめなさい!」  唐突にドアを開いて入ってきたのは、次の授業の教師ではなく、見慣《みな》れたクラスの担任だった。急ぎ足で教壇《きょうだん》に上がり、声を上げる。 「えー、この時間の現代文の飯野《いいの》先生はご体調《たいちょう》がすぐれなくなってお帰りになりました。なので、この四時間目……」  クラスの心がひとつになった。静まり返る。皆がゴクリと息を飲む。そして、 「……自習!」 「やたー!」 「飯野先生グッジョブ!」  歓声にクラス中が一気に沸いた。しかし、 「静かに、他《ほか》のクラスは授業中ですよ! で、課題《かだい》が出てますので、それをやってください、とのことです」  ダン、と置かれたプリントの束に、シュルシュルと盛り上がった雰囲気が急速に縮小《しゅくしょう》してゆく。それでも一度|騒々《そうぞう》しく緩《ゆる》んだ空気は完全に元には戻らない。どこか落ち着かない生徒たちを見回しながら、担任は手際よく、一番前の机の列に後ろに回すべくプリントの束を分けていく。  相馬《そうま》はそれを一部とり、残りを俺に手渡しながら、 「……自習だって。ちょっとわくわくするね?」  珍しく無邪気な笑《え》みを頬《ほお》に浮かべた。それに曖昧《あいまい》に頷《うなず》いて見せ、 「……田村《たむら》?」  俺も同じようにプリントを回し、教室を出て行く担任の背中を見る。担任は静かにね、と言い置いて、ドアを閉じる。教室には生徒だけが残される。耳に張り付いて剥《は》がれないのは、さっきの相馬の言葉。  ——なら会いに行けばいいのに。死んでないなら会えるでしょ。  なんてことを言うんだ、死んでなどいないとも。それどころか、今日《きょう》に限って奴《やつ》は十五分の距離まで最接近してきている。……今日に限って、自習の時間になっている。  ドクン、と心臓《しんぞう》が跳ね上がった。  そうだ。  今なら、会えるのだ。  心の距離《きょり》を知るには、会いに行くしかない。  隣町《となりまち》に松澤《まつざわ》がいて、自習時間になって——こんなチャンスはもう二度とない。  電波が届かないのなら、その声をこの耳で、人間の小さな耳で聞きにいくしかない。鼻先に漂う奴《やつ》の気持ちを確《たし》かめるしかない。それが今なら、できるのだ。  永遠に悩みのループをし続ける以外のことが、今限定で、できるのだ。  そうしなければ、手の中の弁当箱の匂《にお》いさえ自分のものにはできない気がしてしまうから—— 「田村《たむら》? ……なにしてるの?」 「や、ちょっと……その……」  鞄《かばん》の中から財布だけを取り出し、ポケットに突っ込んで席を立つ。プリントそっちのけでおしゃべりや漫画やらに興《きょう》じ始めているクラスメイト達は、俺《おれ》の行動に気なんか留めていない。教卓の前を通り、目指すは教室の前のドア。相馬《そうま》の声に言い訳しながら、後ろ歩きでヨタヨタと。 「……行くところがあるっていうか……測定したいものがあるっていうか」  もちろん、競技場《きょうぎじょう》に行ったところで本当に会えるかどうかなんてわからない。  会えたところで、なにをどうしたらいいのかなんてわからない。  だけど、でも—— 「はあ? どこか行くの? 見つかったら怒られるよ? ほんとに行くんなら……あたしも一緒《いっしょ》に行きたい」 「……いや、今日《きょう》はちょっと……すまん、一人で行く」 「え……あ、田村ってば!」  モゴモゴと答え、一気に踵《きびす》を返して相馬に背を向けた。  どうなるかなんてわからないが、とにかく会いに行こうと思ったのだ。このままなにもしなければ、永遠にいつものループを繰《く》り返すだけだ。それはいやだ、だからとにかく今の状況を少しでも変えることができるように、なにか行動を起こしたかった。  なにかをすることで、なにかが変わるはずだと、信じたかった。努力は必ず報われるものだ式の少年漫画|理論《りろん》を熱量《ねつりょう》に変え、俺は足を動かしていた。  教室のドアを開け、誰《だれ》にも会わないように念じながら廊下を走り出す。ひんやりと静まり返った階段を駆け下りて、昇降口で靴に履《は》き替え、ついに真昼の光が溢《あふ》れる外へと駆け出た。  登下校の時にいつも通っているはずの石畳の道が、なぜだか知らない場所のように思える。足の裏に伝わる感触さえ、初体験《はつたいけん》の趣《おもむき》がある。校舎の中から見つからないように木陰を選んで走り抜け、あとは校門から外へ出てしまえばいい。見つかったらやばいという恐れ、本当に松澤に会えるのだろうかという疑念、会えたならどうしようという緊張《きんちょう》。  走りながら心臓《しんぞう》が口から飛び出しそうで、チビりそうだし、足はガクガクと震《ふる》えていた。本当にみみっちくて、小市民で、度胸がなくて嫌《いや》になるが—— 「……フハハ!」  なぜだか笑いがあふれ出た。門柱の上で寝ていた猫が、胡乱《うろん》な顔で俺《おれ》を睨《にら》んだ。しかし笑いは止まない。俺はバカみたいに笑いながら校門を飛び出し、学生がいてはいけないはずの時間に天下の公道を突っ走る。ストレスフルなループから抜け出すべく、これはまさしく脱出だった。  そうだ。  俺は今、生まれて初めて『エスケープ』を経験《けいけん》しているのだ。        3 ■名前/松澤《まつざわ》小巻《こまき》 ■誕生日《たんじょうび》/九月一九日(クイック、と覚えればよい) ■星座/乙女座《おとめざ》 ■血液型/O型 ■趣味《しゅみ》/特になし ■得意な家事/早朝のゴミ出しと風呂《ふろ》の排水溝洗浄 ■好きな歌/仰げば尊し ■好きな食べ物/カレー ■好きなルー/ジャワの辛口 ■部活/陸上部 ■参加種目/二百メートル走の選手「……本当は百がよかったけど……速い人、多いから……」(本人|談《だん》)  ——覚えているだろうか。  去年、俺は松澤と会話がしたい一心で早朝ランニングに付きまとい、逃げられないのをいいことに、松澤の個人情報を開示させ続けた。その成果がこれらのデータで——そういやきゃつは乙女座だったか。ふうん……女の子らしいな…… 「ではなくて!」  キッ、と元から細い目をさらに細く眇《すが》め、拳《こぶし》を握る。乙女情報に久しぶりに感心している場合ではなかった。  松澤は二百メートルの選手。今はそれだけ思い出せばよし。 「さて、……探すぞ」  小さく呟《つぶや》き、気合を入れる。……気合を入れなければ、今にもくじけて学校にUターンしかねない心境だった。  なぜなら目の前に広がる競技場《きょうぎじょう》は、あまりにも広大過ぎたのだ。真《ま》っ青《さお》な晴天の下、照りつける春の強烈な太陽を遮るものはなにもない。チリチリと脳天を炙《あぶ》られながら、フィールドの外周をグルリと囲む観客席《かんきゃくせき》に立ちすくみ、呆然《ぼうぜん》と下を見下ろす。  ドーン!  と広がる、赤のトラックとそれに囲まれた円形の縁[#「縁」は底本では「緑」]《ふち》。お見事な人工ゴム床のその上で、嫌《いや》というほどのスポーツマン・スポーツウーマンが、あちこちでウロウロしたり走ったり飛んだり、靴を履《は》いたり靴を脱いだり、ジャージを穿《は》いたり下ろしたり。誰《だれ》がなにをやっているかなんて、この門外漢めにはまったく理解不能な状態になっている。  まず一つ物申したいのは、なぜ競技《きょうぎ》を一つ一つやらないのか、ということだ。  テレビのオリンピックや世界陸上は、ちゃんと競技ごとに選手の名前や過去の成績《せいせき》を紹介しつつ、わかりやすく放送されていた。それがなんだこのざまは。なぜ方々で、別々のことを別々にやっている。こんなにまとまりがなくていいのか? それにだ。 「……そもそも、今競技には出ていない選手は、どこにいるんだ……? まさか控え室かなにかがあるのか?」  眩《まぶ》しさに目を眇《すが》めつつ、目立たぬようにゆっくりと首をめぐらせて背後の観客席《かんきゃくせき》を振り返った。 「……こいつらが、みんな、そうなのか?」  そこにいわゆる『観客』の姿は一切ないように思える。かわりに、あちこちのシートを集団ごとに陣取っているのは、揃《そろ》いのジャージ姿で大きなスポーツバッグを抱えた奴《やつ》らだ。その間を縫《ぬ》うように、腕章をつけた係員やカメラをかかえた大会関係者らしき人々が暇そうに通路を歩いて行く。  ジャージ姿がみんな出場者なら、この中のどれかの集団に、松澤《まつざわ》は溶け込んでいるのだろう。ここに溶け込んでいなければ、便所にいるか、トラックを走ってるか、先輩《せんぱい》のジュースを買いに走ったりしているのだろう。  奴を見つける手がかりといえば、顔に名前、あとは「二百メートル走」に出てるはず、ということぐらいしかなかった。学校名ぐらい聞いておけばよかったと思うが、それも後の祭りだ。  つまり、このだだっぴろい競技場で松澤と再会を果たすには、集団を一つ一つ訪問して回るか、もしくは飛んだり跳ねたり走ったりしている有象無象《うぞうむぞう》の中から二百メートル走っている女子を見つけ出すしかない。  それはかなり、なんというか—— 「……無謀《むぼう》、だよな」  寂しく一人|呟《つぶや》きつつ、早くもグッタリと疲労を感じる。  しかし、ここまで来たのだ。会えずには帰れるものか。すべてを明らかにして、問題をクリアして、そして気分よく帰るのだ。この苦悩の日々を終わらせるのだ。今日《きょう》こそゆっくり眠るのだ。……もちろん、そんなにうまくはいかないかもしれないし、ひょっとしたら事態がさらに悪化する可能性だって否定しきれない。  でも、とにかくこの状況に、何がしかの変化は起こるだろう。  もう同じ事を繰《く》り返しあれこれ考えて、答えの出ないループにはまり込むのは嫌《いや》なのだ。  松澤《まつざわ》に会って話をすれば、きっと突破口が見えるはずだ。  その一念で、気温の上がり始めた観客席《かんきゃくせき》の通路を歩き始めた。階段を上がり、また下がり、時には下を見下ろしてトラックを走る女子の太腿《ふともも》を凝視《ぎょうし》し、時に逆三角形ボディとすれ違って卑屈《ひくつ》に背中を丸め。  ——そうして、二十分が経《た》った頃《ころ》だろうか。  降り注ぐ日差しに目がチカチカし、とうとう手近なシートに腰を下ろした。あまりにだらしがないとは自分でも思うが、ここでだけは、日射病で運ばれるなどという醜態《しゅうたい》を晒《さら》したくはないのだ。松澤が見ているかもしれないところで二度と同じ失敗はできない。  だからこれは、戦略的な休憩《きゅうけい》である。——などと自分に言い訳をしつつ、足を投げ出し、息をつく。  早く見つけなければ。  紫外線《しがいせん》に晒されて頬《ほお》もうなじも熱《ねつ》を持ち、押さえた手の平の下でじんじんと疼《うず》いた。時計を見て、眉間《みけん》に自然と皺《しわ》が寄る。自習時間と昼休みが終わるまで、残り四十分あまり。帰りのバスの時間も計算すれば、ここにいられるのはあと二十分だ。たったの二十分。 「……今日《きょう》はもう、無理かもな……」  ため息まじりの呟《つぶや》きは、やけに現実味を帯びて耳の中に響《ひび》いた。うわっ、と思うや否や、 「このダメ野郎!」  思い切り己《おのれ》の頬を己でひっぱたく。罰は早く与えたほうが効果が高い。  無理かもな、とか言っている場合ではないじゃないか。  今日はもう、松澤とは会えないとしたら、もしも本当にそうなのだとしたら——また次の機会《きかい》を待つしかなくて。  ということは、まずは返事を出さなくてはいけなくて。  だけど、松澤の真意がわからないから、返事を出すことはできなくて。  ならば松澤の気持ちを聞くために、会わなければいけなくて。  だけど今日は会えないのだから、また次の機会を——ということを、一生、俺《おれ》は続けるつもりなのか? 相馬《そうま》のことも棚上げして?  冗談《じょうだん》じゃない。  それでいいわけがない。  精神的に負荷があり過ぎる。はっきり言って、もたない。 「……それとも……」  眩《まばゆ》い光に照らされた、明るいフィールドを呆然《ぼうぜん》と眺めた。女子の砲丸投げの様子《ようす》がちょうど正面によく見える。 「……それとも、いつか……忘れてしまえるのか……?」  暑さと疲労でクラクラする頭の片隅に、自分の声が他人の言葉のように響《ひび》いた。  もしも今日《きょう》、会えなかったとしても。  この悩みを解決できなかったとしても。  一年後か、五年後か、五十年後か、今わの際か。そんな未来の「いつか」を生きる俺《おれ》は、松澤《まつざわ》のことを忘れているのではないだろうか。  悩んでいたことさえ忘れて、普通の日常をまぬけ面《づら》ぶらさげてそこそこに生きているのではないだろうか。 『この苦悩の日々を終わらせるのだ』——松澤を探そう、と歩き出す前、俺はそんな決意を固めていた。それが俺の希望なのか。松澤を忘れ、悩んでいたことさえなかったことにすれば、それで俺は満足するのか。  自分がこの苦しい状況から抜け出せさえすれば、どういう結末であっても……忘却という結末であっても、構わないということなのか。  自分の心の安寧《あんねい》さえ守れれば、それでいいということなのか。 「……ほんとかよ、それ……」  なぜだか腹立たしい気がして、こめかみをグリグリと拳《こぶし》で揉《も》んだ。痛かったけれど、それでいいのだ。  しばらく繰《く》り返し、痛みと眩暈《めまい》に息をつく。この腹の底の気持ちの悪い粘り気はそんなことでは消し去れないけれど、少なくとも痛みを感じる瞬間《しゅんかん》だけは忘れていられる。  日差しの眩《まぶ》しさに瞼《まぶた》を瞬《しばたた》かせながら、放られた砲丸の行方《ゆくえ》を無意識《むいしき》に追った。鉄の球は放物線《ほうぶつせん》を描いて砂地に落ち、計測係が走り寄る。その向こうでは別の係員が巨大なマットの位置を調整《ちょうせい》し、高飛びだろうか、なにかのバーを慎重に点検してい 「るっ!?」  ガバッ、と身体《からだ》を起こし、手すりに貼《は》り付いた。  今、視界の端を——トラックを横切って行った数人のお揃《そろ》いジャージ姿の婦女子連は。その後ろの方に、引っ付いていた奴《やつ》は—— 「……松澤っ!?」  勢いよくシートから跳ね起きた。  あの小さい尻《しり》、あの小さい頭部のバランス、あの白い横顔。見れば見るほど松澤に見えてくる。  だが追いかけようにも、奴らは俺に背中を向けて競技場《きょうぎじょう》の中心へ向かって歩いていく。ここから競技場へは降りられない。それでも少しでも近づいて確認《かくにん》しようと、円の外周をむなしく走って回り込むが。 「おーい! 松澤ですかー! ……って、聞こえないよな」  他《ほか》の競技を応援する声や風の音に遮られ、俺の呼びかけは届きそうにはない。と、スピーカーから女性の声で放送が流れ出す。 「……午後○時二十五分より、女子二百メートル、予選……午後○時三十分より、男子走り高跳び、決勝……」 「女子、にひゃく、めーとる……っ!」  思わず唸《うな》り、遠ざかるジャージの背中を凝視《ぎょうし》した。やはりあれは松澤《まつざわ》なのだ。なんというか……この世に奴《やつ》は、実在していたのだ。なにを言っているんだ俺《おれ》は。  とにかく、……とにかく、会えるのだ。  今日《きょう》、松澤と、話ができるのだ。  緊張《きんちょう》のあまりガクガクと震《ふる》える足を踏みしめ、できるだけスタート地点へ近いところを目指して狭い通路を走り出した。もっと近くに行けば、きっと声も届く、こっちに気がついてくれさえしたら、この後で話ができる時間を取れる。……松澤の気持ちがわかったら、俺はどうするべきなのか、わかる。  きっと全部、いいようになる。  ——そんなふうに。  あまりにも懐《なつ》かしい松澤の姿に、俺はすっかり「あの夏」の時間に立ち返ってしまっていたのだった。  あれからどれだけの季節が過ぎたのかも忘れて、なにもかもをチャラにして、たった一人、数ヶ月の時を飛び越えた気持ちになっていた。  愚かにも。      ***  三組がレースを終え、そして。 「あ……っ!」  思わず立ちあがっていた。「誰《だれ》この人?」「さあ」などとすぐ隣《となり》のジャージ軍団にひそひそ噂《うわさ》されてはいたが、気にしない。旅の恥はかき捨てだ、おそらく君たちヘルシー軍団と俺の人生が交差することはこの先一生ない。 「松澤———っっっ!」  声を限りに叫んだ。「う、うるさ……」「ちょっと離《はな》れてようか」……なにを言われても構うものか。  叫んでから、小さくブルル、と震えていた。首筋が震えて強張《こわば》って、なぜだ、いきなり涙がビュッと噴《ふ》き出しそうな気がして、驚《おどろ》きながらも瞼《まぶた》を押さえた。その手が震《ふる》える。フゥッ、と吐息を押し出した腹筋も震える。  スタートラインの付近に、松澤《まつざわ》が。松澤が、いたのだ。  なぜこんな気持ちになるかはわからない。  だけど、その姿を見て、俺《おれ》は本当に—— 「……松澤……っ」  ——泣きたいような、気持ちでいたのだ。  少し、やせたかもしれない。短いパンツから伸びた足も、ランニングから伸びた腕も、記憶《きおく》の中の松澤よりもしなやかでほっそりとして見える。  髪も伸びたみたいだ。この距離《きょり》からでもわかるほど「適当」なゴムで「適当」に結ばれた髪は、松澤らしいとしか言いようがない。  小鹿《こじか》みたいな、スッと伸びた首。ビー玉のような視線《しせん》の定まらない目。透けてしまいそうな輪郭《りんかく》で、松澤は風の中、一人だけ静寂の世界に立っていた。  彼女の周りにだけは雑音も雑念も侵入できない。彼女だけは、誰にも侵《おか》せない。柔らかそうなのに、透けそうなのに、ガラスのように横顔は硬質。  あれは、松澤だ。  あれが、松澤なんだ。  あいつはそういう奴《やつ》だった。  声もなく、俺はただそのたった一人の女を見つめていた。あの真夏の教室、高浦《たかうら》とふざけあっていたあの日の教室。俺の目に松澤は、どんなふうに見えたのだっけ。あの時俺が見た松澤と、この松澤は同じだろうか。まったく違うようでいて、まったく同じようでもある。驚きだけはとにかく同じで、——あの日も今も、俺は松澤の存在そのものに驚かされているのだった。  なんでこういう透明なものが、同じ地上で息をして、動いているのだろう、と。壊《こわ》れずにいることが奇跡のように思えていた。 「……松澤ーっ! 俺だ、田村《たむら》だーっ! 松澤ーっ!」  やけを起こしたみたいに叫んだ。しかし松澤は振り返らない。ただ前だけを見て足首を回し、軽く屈伸をし、そして。  目を閉じた。  両手をピョコン、と伸ばし、天へ。  何事かを唱えながら空を仰ぎ、薄《うす》く開いた目はその空の向こうの星を見ているようで——。 「……なにを、送受信してるんだ……?」  俺にはわかっていた。松澤は電波うさぎのやり方で、真昼の月と交信しているのだ。変だと思われても、誰《だれ》かに心配されても、松澤にはそんなのはどうってことないのだ。  松澤は、大事な話をしているのだ。 「……変わってないなあ、グズ助……みんなとっくにスタートラインについてるぞ……」  しみじみと、ずっこけたい。  係員に急《せ》かされ、松澤《まつざわ》は電波通信を終えた。慌てているのかいないのかよく分からない表情で、松澤はスタートラインに身を屈《かが》める。ブロックに足を固定し、何度か確《たし》かめるように腰をクイクイ、と上げ下げし……や、やめなさい、と俺《おれ》はなぜだかオロオロと目をそらし。  そして——顔を前へ。 「あ……」  思わず小さな声が漏《も》れる。奴《やつ》は、あのグズ助は、あんな顔もできたのか。  また驚《おどろ》かされる。奴を見るたび、驚かされる。  あんなふうにまっすぐに、進むべき方向を見据えることもできたのか。俺の知っている松澤は、たいがいいつも困ったような顔をしていた。それか、眠たそうな顔か、驚いた顔か。  そんなことをグズグズと思い出しているうちに、スターターが銃を持った手を上げる。選手たちの目つきが変わり、下半身がグッと腰を高く支える。なぜだか俺まで緊張《きんちょう》し、息を詰める。そして、 「用意っ!」  かすかにスターターの声が聞こえ——パアン! と銃声が弾《はじ》けた。選手たちが一斉に飛び出す。俺は立ち上がり、拳《こぶし》を振り上げる。 「松澤《まつざわ》——っ! がんばれ——っ! ……はやっ!」  真ん中のコースを走り出した松澤は、スタートしてわずかに数メートル、軽やかにトップへ躍《おど》り出ていた。振り上げた拳《こぶし》を高く突き上げ、俺《おれ》はさらに大きな声援を送る。 「いっけぇ、いけいけっ!」  あいつ、速いぞ!  勝てる、一番になれる!  自然と叫ぶ口が笑《え》みをつくり、俺は映画かなにかの感動的なラストシーンでも見ているような気分になっていた。これはすばらしき結末、約束されたハッピーエンドの直前、松澤は軽々とカーブを曲がり、スピードは落ちることなく、ゴールを目指してぐんぐん他《ほか》の選手を置き去りにしていき、鈍重な戦車の中に混じった戦闘機《せんとうき》のように、ああっ、気をつけろ、もう一人後ろから追い迫る結構速い奴《やつ》がいる、引《ひ》き離《はな》せ——と、 「ええええっ!?」  そのときだった。  声援が、悲鳴に変わった。  俺のだけじゃない、隣《となり》や後ろのジャージ軍団からもだ。 「うわっ……やった!」 「あーっ!」  ……グズ助っ!  頭を抱えて座り込みたくなる。松澤はゴールまであと数メートル、というところで、スリップでもしたかのように、そのまま斜め前へ頭からつっこんでしまったのだ。  つまり、コケた。 「……だ、大丈夫かよ……?」  コケたというにはちょっとひどいかもしれない。バランスを崩した松澤は隣のコースから追い迫っていた二番手の選手を巻き添えにしてぶっ倒し、そのまま地面に叩《たた》きつけられたのだ。天罰のように、その肩の辺りに巻き添えを食った選手がのしかかり、二人分の体重を支えて小さくバウンド、そしてトラックの線上《せんじょう》に壊《こわ》れた人形のように転がった。  他の選手たちがゴールし、パラパラと拍手の音が響《ひび》く。巻き添えを食った選手は悔しそうに立ち上がり、しかし意外にも爽《さわ》やかに肩をすくめて、倒れたままの松澤の背中を気にするな、とでもいうようにポンと叩いた。  そして、異変に気がついた。 「……松澤……?」  周囲からも次第にざわめきが広がっていく。巻き添えを食った選手も一旦《いったん》屈《かが》み込んで松澤の状態を確《たし》かめると、大きな声で手を振りながら誰《だれ》かを呼んだ。松澤を指差しながら、走ってコースから逸《そ》れ、係員の下へ。 「起きないぞ?」 「やばくない? あれ、大丈夫かよ」  周囲の声が遠くに響《ひび》く。  松澤《まつざわ》は、立ち上がらない。  たった一人、トラックに残され、横倒しになった松澤はピクリとも動かない。  しん、と腹の底が冷えた。  まさか、頭でも打ったのだろうか。まさか、まさかまさか—— 「ま、まつざ、……松澤……っ」  シートに凍りつきそうな身体《からだ》を全力でもぎ離《はな》した。手すりにしがみつき、身を乗り出し、叫んだ。 「松澤—————っっっ!」  だめだ、聞こえてない。起き上がらない。助けに行かなくては——迷わず手すりに足をかけ、競技場《きょうぎじょう》へ飛び降りようとした。しかし、 「ちょっとちょっと何してんの君!?」 「はっ、離してくれ! 松澤が、松澤が……っ!」 「しっかりしろって! 何メートルあると思ってんだよ!」  見咎《みとが》めたジャージ軍団に羽交《はが》い締《じ》めにされ、ズルズルと引き戻される。必死に抵抗し、足を踏ん張り、両腕を振り回しておせっかいな拘束《こうそく》を振り払った。  松澤を助けに行かなくてはいけないんだ、俺《おれ》は松澤を、 「……うぐっ!」  走り出そうとして転び、手すりに思い切り腹を打ち付けた。吐く寸前で尻餅《しりもち》をついたところを、再びジャージ軍団に取り押さえられる。 「離せ、構わないでくれ! 松澤のところに行かせてくれ! ……松澤ぁっ! 今行くからな、大丈夫だからな、俺がすぐ……っ! 松澤ぁぁぁぁーっ!」  手すりにつかまってなんとか立ち上がりながら叫び、そうだ、と何人分かの腕を振り払った。  飛び降りなければ文句はないんだな、それなら、 「すいませんっ! すいませ———んっ! 下に行きます、そこに降ります、松澤のところに行くんです! どこからそっちに行けますか!?」  係員の腕章をつけた人物を下に見つけ、必死に声を上げた。しかしその人物は制服姿の俺を見て首を傾《かし》げ、 「……競技者しかこっちには入れませんけど?」  頭の芯《しん》が真っ白に燃《も》えた。 「だっかっらぁっ! そんな場合じゃないんだってっ! なんでっ、なんでわかってくれないんだよっ!?」  あせりを抑えきれず、両手で手すりを思い切りぶっ叩《たた》く。 「松澤《まつざわ》を、助けに行かなきゃいけないんだ! 早く行ってやらなくちゃいけないんだよっ! いいから早く教えてくれよっ! そこに行く方法を、俺《おれ》に——ああもういいっ!」  一気に手すりを乗り越えてしまおうと身を乗り出した瞬間《しゅんかん》、 「あの子なら大丈夫だって! ほら、担架も来たし!」  誰《だれ》かが俺の肩を掴《つか》んでシート側に引き戻した。床に転げ、もがくように起き上がる。手すりにすがって立ち上がり、押さえ込もうとする腕を振《ふ》り解《ほど》き、 「松澤ぁぁぁ—————っっっ!」  全力で、叫んだ。  今から行くと、俺はここにいると、早く伝えてやりたかった。そうしなければ松澤が壊《こわ》れてしまうようで怖かったのだ。  しかし。 「……っ」  不意に、視界がクリアになった。  声が、掻《か》き消えた。  見えた。  現実の光景が、視神経から脳に届き、そして俺は理解した。シートに座らせようと支えてくれる腕に体重を委《ゆだ》ね、もう抵抗などしなかった。  いや、できなかった。  俺の声を待っている奴《やつ》は——俺の助けを待っている奴は、いなかった。  俺の声は誰のもとにも届かず、松澤のもとには担架を担いだ係員が跪《ひざまず》いていた。  コーチらしき男が松澤をそっと揺り動かすと、松澤はようやく苦しげに身体《からだ》をよじって目を開けた。だが顔は真《ま》っ青《さお》で、眉《まゆ》を寄せ、何かを男に訴えながら時折固く目を閉じ、こらえられない、という表情をして身体を丸めた。泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、肩を自分の手できつく掴んだ。  担架に乗せられて運ばれていく松澤を見ているだけで、胸がザクザクと刃物で抉《えぐ》られているように痛んだ。痛くて痛くて、立っていることも難《むずか》しかった。だけど。 「……松澤……」  松澤のもとに駆けつけたのは俺ではなくて、俺はこの観客席《かんきゃくせき》で無駄《むだ》に騒《さわ》いでいるだけで、松澤は担架で素早く運ばれていった。  俺は、必要なかったのだろうか。そうかもしれない。今や俺は、松澤にとって、いらない奴なのかもしれない。  そのことだけは、理解しなければならない気がした。  俺《おれ》の声は届かなくて、俺の手は届かなくて、俺の足は松澤《まつざわ》のところへ走ることができなかった。  俺は、松澤を助けられなかった。 「……ちょっと君、大丈夫かよ? もしかして、あの子の彼氏とか?」 「ああ……それなら心配なのは分かるけどさあ。どこの学校の人? 一人で戻れる?」  俺は——松澤に、なにもしてあげられなかった。  つまりそれが、俺と松澤の距離《きょり》、ということなのか。  声も届かない。手も届かない。足も届かない。松澤が苦しんでいるのを、見ていることしかできない。見送り、立ちすくみ、座り込み、そして。  なにもできない。  それが、俺と松澤の—— 「……えっ!? 泣いてる!? ちょっとこの人泣いてるよ!」 「どうする? 誰《だれ》か呼ぶ?」 「ちょっと、おーい! 大丈夫かあ!?」  ——俺と松澤の、心の距離。  近くにいても、触れられない。  呼ぶ声を届けることもできない。  なにもできない。俺はいらない。それが俺たちの、距離なのか。      *** 「え〜、皆さん、グラスは行き渡ったでしょ〜か! それでは〜、三Bの再会を祝しまして〜、……ちょっと、みんなってば! こっちを見ろって! 俺を見ろ! なんで目をそらすんだよ、俺はクラス委員だぞっ!? 今までずっとみんなの提出物を集めてきたり、音楽祭でさぼってた奴《やつ》らが大量発見されたときにクラスを代表して泣くまで怒られたり、夏休みにも学校に来てメダカの水を替えたりしたんだぞっ!? いいじゃないか俺が開会の挨拶《あいさつ》ぐらいしたって! 俺はこういうことがやりたい、ただその一心でクラス委員を務めてきたんだっ! なにもクラス全員の個人情報を合法的に入手しやすいからというわけでは……それだけではないんだぞ! ……なあみんなってば〜! ちょっと田村《たむら》〜、おまえなんとか言ってくれよ! みんな俺の言うことを無視するんだよ〜!」 「……」 「田村ってば〜!」 「……」 「ちょっと田村《たむら》! 親友だろ〜!」 「……」 「……田、田村?」 「えっ!?」  いきなり高浦《たかうら》のもちもちっとしたどアップが目前に迫り、飛び上がるほど驚《おどろ》いた。 「な、なんだよいきなり!」 「なんだよじゃないだろー、ずっとおまえのこと呼んでたんだぞ。ほら、見てくれこのシラケ世代な連中を。だーれも俺《おれ》の乾杯の音頭《おんど》に耳を傾けてくれないんだ」 「あ……ああ……」  なんだか頭の中は麻痺《まひ》したような状態で、高浦の言葉がうまく脳みそに伝わってこない。とりあえず何度か頷《うなず》いてみせ、なにやら乾杯の音頭をして欲しがっているということだけは理解できたから、 「……ええと……かんぱーい」  いつの間にかビールの満たされていたグラスを、高く掲げてみた。  か、かんぱ〜い、と微妙な声が唱和する中、高浦の「ええええ——っ!」……悲鳴だけが、甲高《かんだか》くカラオケボックスの中に響《ひび》き渡る。  とにかく、とりあえず、とりいそぎ。  なんの感慨もなく、グラスの中身を喉《のど》に流し込んだ。炭酸が喉を痛めるが、気にせず一気に仰《の》けぞって呷《あお》る。 「おっ、今日《きょう》の田村《たむら》は男前だなー!」 「ほらほらこっちも飲んで飲んで!」 「さささグイっと!」  空になったグラスの上に、次々と差し出される瓶の口。  返事もろくにしないまま、注がれるそばから飲み干していく。と、 「ちょっともうなにすんだよ!?」 「あだっ!」  突然、お絞りで頬《ほお》を殴られた。怒りに震《ふる》える目で俺《おれ》を見つめているのは、傍《かたわ》らに座ったシカトされ委員長・高浦《たかうら》。 「なんで俺の乾杯を奪うんだよ!」 「は? なに? なんの話? ……ゲッフ」  理解できない言葉をぶつけられ、俺はじっくりと高浦を見つめ返し——見つめ返そうとし、慌てて目をそらした。ものすごく衝撃的《しょうげきてき》なものに、今になって初めて気が付いてしまったような、しかし二度と確認《かくにん》したくないような。  だが、問いたださないことにはこれが夢か現《うつつ》かさえも理解できなくなりそうで無駄《むだ》に勇気を振り絞る。 「お、おまえ……その格好はどういうつもりなんだ!?」 「え? これ?」  へらん、と糸のように細い高浦の目が、だらしのない笑《え》みにミクロン単位の細さ記録《きろく》を叩《たた》き出した。 「いやあ、これはさあ、ここだけの話……今日の俺はぶっちゃけ気合入ってるのよ! こういう同窓会ってカップル成立率、超高いんだぜ? なんか女子たち、大人《おとな》っぽくなってる奴《やつ》もいるし〜!」 「……ぶしっ!」  衝撃のあまりくしゃみが出る。  そして辺りを見回し、理解した。この扮装《ふんそう》のせいで誰《だれ》もがこいつから目を逸《そ》らし、正視することさえできずに、必死に顔を背けているのか。 「まあちょっと気恥ずかしくもあるけどね」  へへ、と照れくさそうに掻《か》く額《ひたい》には、ねじった極彩色《ごくさいしき》のバンダナが文字通り異彩を放っていた。  腕を丸出しにしたピタピタのランニングに、それからきっちりウエストで絞り上げられた超ミニのデニム短パン。むき出しの太ももがむっちり白いのが心の底から気味悪い。ああもうっ、にじり寄るな! 「このファッションは、妹が今日《きょう》のためにコーディネートしてくれたんだよ。お兄ちゃんこれ似合う、絶対着ていけ、って……へっへっへ。ちょっと大胆だけど『これを着てせいぜいステキな恋でもなんでも見つけるがいいわ!』なんて言われたら、着ずにはいられないだろ〜? なんだかんだ言って、妹っていいもんだよな、うん」 「……おまえの妹は、おまえのことが嫌いらしいな」 「はあ? なんで? 微妙な年頃《としごろ》にしては、結構仲良くやってるよ?」  本気で不思議《ふしぎ》そうな様子《ようす》の高浦《たかうら》に「フン」と鼻息をかけ、背を向けた。これ以上こいつの太ももを見ていたくない。  早くも騒然《そうぜん》とおしゃべりの渦が湧き起こっている、格安カラオケ店の貸切パーティルーム。誰かの歌うへたくそな日本語ラップが部屋中に響《ひび》き渡る。  テカテカ光る下敷《したじ》きのようなドリンクメニューが手から手へ渡されて、目の前を横切っていった。早くも飲み放題の恩恵に与《あずか》ろうと、おかわりをする連中がいるらしい。 「今日の田村《たむら》、とばしてんなー! もっと飲むだろ? これあけちゃおうぜ」 「え? あ……ええ! ええ、飲みますよ!」  もはや誰《だれ》に声をかけられたのかも定かではない。ただ差し出されたビールの注ぎ口をグラスで受け、なにも考えずに口の中に流し込む。次から次へと、継《つ》ぎ足されるままに。  涙が滲《にじ》みそうな苦《にが》さと炭酸に目を固く閉じて耐え、やがて一気にグラスを空にした。ゲップを小出しにしてごまかし、誰とも目を合わせずに俯《うつむ》く。目の前の冷凍食品丸出しの揚げ物や焼き鳥を口にバカバカと頬張《ほおば》り、会話の輪《わ》から距離《きょり》を取る。  とてもではないが、この大騒《おおさわ》ぎに参加できる気分ではなかったのだ。というかそもそも、参加自体をキャンセルさせてもらうつもりだった。  しかし、幹事の携帯に連絡を入れようとしたところで、連絡先が書いてあった紙を学校に忘れてきたのに気がついた。高浦は携帯を鳴らしているのに出てくれず、すぐに留守電に切り替わってしまう。俺《おれ》にとってメッセージを吹き込むのはこの世の三大恐怖のうちのひとつなので、のこのこ待ち合わせ場所まで行って、不参加を伝えて帰ろうとしたのだった。  しかし「久しぶり久しぶりー!」「お、田村来たぜー!」「遅いじゃんかよー!」「よーし店に入ろう!」……盛り上がっている集団に有無《うむ》を言わさずに店へ押し込まれ、結局気色悪い高浦の隣《となり》に納められてしまった。俺は変態防波堤か。  乾杯だけしてからこっそり席を立とう、と思っていた。なかなか乾杯が始まらないなー、と思っていた。そうしたら高浦が俺に乾杯の音頭《おんど》をとれ、と言った。乾杯したら、グラスの中にビールがあるのに気が付いた。これを空けたらキリよく帰ろうと思った。そう思いながら、あ、また注がれちゃった、これも空けないと感じ悪いよな、あ、また注がれちゃった、これも空けないと感じ悪いよな、あ、また、あ、また、あ、また……うん、どうせ金も払うんだし、などと—— 「おっと田村《たむら》選手! いつの間にか一人で二本目空けちゃってるじゃん!」 「……ゲーフ」 「ビール追加ー! ていうかビンよりピッチャーで頼んじゃって! 田村選手、ピッチャーいくんで! な、田村選手!」 「……ウーフ」  ——ということだった。  ああだけど、いい感じだ。  頭の芯《しん》はクラクラするし、なんだか世界は回るし、みんな楽しく笑っているし、ほあああ、のえええ、俺《おれ》ったら今、悩んでないよおおお……あはは……あは、あは、あは…… 「あはははははっ!」 「うわ……」  真正面に座った女子が気味悪そうに俺を見ているが構うものか。 「そうだ〜俺も歌おうかな〜……あははははは〜、そうだ歌を歌おう、硬派な奴《やつ》がいい……うんと硬派な奴を一曲……」  スラリと立ち上がったつもりだが、 「……おっとっと」  足元、意外に不如意《ふにょい》。  ヨタヨタとよろめき、壁《かべ》に手を突いて三回転。たまたま空いていた女子の座るソファの隙間《すきま》にすっぽりと尻《しり》が収まった。  女子どもは俺の登場に羽虫の飛来ほどの興味《きょうみ》ももたず、そしたらさーそんでさーそのときさーぶははばかじゃねえのーとトークを展開し続けている。  ああ……ここにもビールがあるじゃないの……残したら、もったいないじゃない? 「そんで結局|松澤《まつざわ》に会えた奴っていないの〜? 陸上部関係は〜?」 「ぜんぜん会ってなーい! 今日《きょう》はどうだったんだろうねえ、一年でいきなり出場なんてかなりすごいよ」  ……ほああああ……。 「でもさあ、まさかあの松澤が受験《じゅけん》に失敗しちゃうとはねえ。やっぱりおばあちゃんが亡くなった精神的なショックがまだあったのかな?」  ……のええええ………ふなああああ……。 「ねえ、田村」 「——ぽえぇ?」 「うーわ、酔ってんよコイツ! いっちょまえに顔赤くしてんよ! きもーい!」 「起きろって田村! ほら、おまえの大好きな松澤の話題だよ!」  ……うななななん?  おれの……? 大好きな……?  ま? 「……つ」  ざ……? 「……わ!」  松澤《まつざわ》!  ようやく脳みそに到達したその名前が、アルコールに跳ね上がる俺《おれ》の心臓《しんぞう》を貫いた。  グラスを掴《つか》んで静止したまま、ズルリと床に落っこちた。  おまえ、あの、なんだ、松澤って……ああ松澤! 松澤、怪我《けが》は、怪我はどうなったんだー! ……いや、違う……俺は……そうだ、忘れちゃいけない。いや、忘れなくちゃいけない。  なにもできない。俺はいらない。それが俺たちの、距離《きょり》。  そうだ……だからもう、考えたってどうしようもない、というか…… 「ビ、ビール……あ、ねえ」 「田村《たむら》が全部飲んじゃったんでしょー! 責任とってカクテル頼んでよ! あたしカシスソーダ!」 「あたしモスコミュールとウーロンー!」 「あたしウーロン!」 「あたしダイペプ! 普通のコーラ頼んだらコロス! あと焼きそば!」 「……ハイハイ、えーとニャニャニャソーダにニャニャニャミュールに……」  壁《かべ》に取り付けてある電話機《でんわき》に向かおうとしたところで、不意に脳みそが、 「……んっ!?」  覚醒《かくせい》した。  小さな田村くんがよいしょ、よいしょ、と脳内過去ログを再アップしてくれる。  ——うーわ、酔ってんよコイツ! いっちょまえに顔赤くしてんよ! きもーい! 「……じゃなくて! その前! もっと前! 巻き戻して!」  もっと前? じゃあこれか? 小さな田村くんが一度脳内に引き返し、再びアップした過去ログは。  ——でもさあ、まさかあの松澤が受験《じゅけん》に失敗しちゃうとはねえ。 「……それだ!」  クルリと向き直り、ソファに座っている女子の足元に取りすがる。 「受験に失敗って、なんだそれは!」 「……は? ねえちょっと、カシスは?」 「うるさいっ、あとでカシス風呂《ぶろ》にできるほど頼んでやる! さっき言ってただろ、松澤が受験でどうのこうのって!」  数人の女子が肩をすくめ、呆《あき》れたように顔を見交わし、 「……田村《たむら》、知らなかったの? 女子はほとんど知ってるよ?」 「し、知らない! 俺《おれ》女子じゃないから知らない! ああじゃあわかったよ、俺は今から田村|雪子《ゆきこ》になる! だからあたしにもそれを喋《しゃべ》ってよ! 仲間はずれにしないでよ女の子同士じゃないのよぉっ!」 「ちょっと、足触んないでよ。……私は陸上部にいる後輩《こうはい》から聞いたんだけどさあ」  ——そう前置きをして語られたのは、こんな話だった。  松澤《まつざわ》は元々、陸上では全国クラスに近い位置にいた選手で、引っ越した先の陸上の強豪校から誘いも受けていたのだそうだ。しかしそれを断り、あくまで一般受験にこだわって進学校を受験したが、不合格。そして結局その強豪校の二次募集で拾われたという。 「……これは不確定《ふかくてい》情報だけど、その落ちちゃった学校っていうのが有名な進学校で……田村も知ってるでしょ? 隣《となり》の市に同じ系列の全寮制校があるじゃん」 「ああ……知ってる……」  うちから電車で小一時間ほどのところに、その全国的に有名な学園はあった。あまりにも自分とは偏差値的に関係がないので存在を意識《いしき》したことはなかったが。 「向こうのとあそこの、どっちに行くかは合格後に希望できるんだって。だから松澤は合格したら、あそこの方に通って、つまりうちらの近くに戻ってこようとしてたんじゃないのかな。まー今となっては確認《かくにん》のしようもないけど。……っていう話」  肩をすくめて見せつつ、女子は「しゃべりすぎちゃったかな」と呟《つぶや》くが。  ——うそだろ。  凍りつき、俺は身動きができなかった。いきなり氷水をぶっかけられでもしたかのように、ゾッと全身が冷えていく。ビールの安っぽい酔いが、胃の中でぞわりと蠢《うごめ》く。  そんなのは、知らなかったぞ。  受験《じゅけん》に失敗したのも知らなかったし、もしかしたらこの近くに帰ってこようとしていた、なんていうのも知らなかった。  なにも知らなかったから俺は、だから——あんな、手紙を。 『そっちも合格発表はとっくに済んでいるはずだ。どうなんだ。おまえの進路を教えてみろ。ちなみに俺は超合格だ。新たなる生活へ爆進《ばくしん》だ。誰《だれ》も俺を止められない、そう、俺はさしずめ武田《たけだ》騎馬《きば》軍団《ぐんだん》』——などと。  そうか。  だから松澤は、返事が出せなかったのか。  ばかな俺がばかな手紙を出したせいで、松澤はなにも答えられなくなってしまったのか。  それなのに俺は、全部松澤のせいにして。自分からも手紙を書くのをやめて。  こんなふうに、なってしまって。  呆然《ぼうぜん》と、呟《つぶや》いた。 「……どうしよう……」  座り込んだまま、誰《だれ》の声ももう聞こえない。  こっちに戻ろうとした松澤《まつざわ》の気持ちも、それに失敗した松澤の気持ちも、俺《おれ》が全部無神経という罪名の行為で踏みにじっていたのだとしたら、俺はどうしたらいいんだ。 「ど、どう……しよう……」  そのせいで失ってしまったものを、俺はどうしたらいいんだ。……もっとちゃんと考えたいのに、俺というバカは飲めもしない酒を呷《あお》り、すっかり大バカになっている。痛む頭は靄《もや》がかかったようで、ちゃんと思考してくれない。  もっと、ちゃんと考えなくてはいけないのに。  転倒して、動かなくなった松澤。届かなかった俺の声。あまりにも遠い俺と松澤の距離《きょり》。去来するのは、取り返しがつかないことをしてしまったというあまりにも重過ぎる現実感だ。俺は失敗した。間違えた。  間違えて、しまったんだ。  固い床に座り込んだまま、クラクラする頭を抱え、俯《うつむ》く。  誰か、早くこの頭からアルコールを洗い流してくれ。  誰か早く、頼むから。 「——うーわ! 誰あれ!? あそこから覗《のぞ》いてる子!」 「すっげえ美人……」 「誰かの知り合いかよ? ねえねえあれ誰? 部屋、間違えてんのかな?」 「う〜っ、入って来い入って来〜い! お近づきになりてえ〜!」 「ほら田村《たむら》、なにぼーっとしてんだよ! あの子見てみ、ちょ〜〜〜かわいいっ!」 「……え?」  肩を叩かれ、意味もわからずに皆が指差す方向へ無意識《むいしき》に顔を向けた。  ドアにあけられた長方形のガラス窓。  そこから中を覗き込み、きょろきょろと誰かを探すように視線《しせん》を惑わせ、そして俺を見つけ、ぱっと輝《かがや》いた表情。  押し開かれた、防音ドア。 「……来ちゃった!」  スポットライトカモーン!  いや、違った——ライトを浴びているかのような、圧倒的な存在感。  誰もが目を奪われずにいられない、それは凄《すさ》まじい光のオーラだ。あまりにも整《ととの》い過ぎた造形に、素人《しろうと》ばなれした華やかな美貌《びぼう》。  無彩色の世界に、突如咲き誇った大輪《たいりん》の花みたいな鮮《あざ》やかな美少女。  あれは、あれは—— 「……フォォォォッ……!」  俺《おれ》はほとんど飛び上がり、ガタッ、と背中をテーブルに打ち付けた。誰《だれ》かのグラスが倒れたようだが、気にしてなどいられなかった。 「えへ。……あんた、なんで床に座ってるの?」  華奢《きゃしゃ》なサンダルが、床を歩くたびにコツコツと音を立てる。  三Bの貸切のはずの部屋に入り込む部外者。だが、文句を言う奴《やつ》など一人もいない。  ゆっくりと揺れる長い髪。湧《わ》き上がるどよめきとため息。すっかり停止してしまったバカ話のバカ騒《さわ》ぎ。  透けるような素材のふんわりしたスカートが、俺の目の前で風を孕《はら》んで揺れた。柔らかに胸のふくらみを包んだ真っ白なニットに、こぼれた髪がふんわりと緩《ゆる》やかな螺旋《らせん》を描いた。  まるで絵の中の妖精《ようせい》か、絵本に出てくるお姫様のようなその姿に、誰もが目を釘付《くぎづ》けにされていたのだ。 「……髪の毛、巻いたの。パーマじゃないよ、コテでやったの。……どうかなあ? 変? ケバい?」  唐突すぎる登場をした相馬《そうま》広香《ひろか》が俺をじっと見つめる様子《ようす》に、この場にいる全員が、見開いた目を向けた。  だがそんなことに構っている場合ではなくて、 「おまえ……ップ、なんで……ップ、ここに……ップ」  必死にゲップを抑えつつ、相馬を呆然《ぼうぜん》と見上げる。 「迷惑だった? ごめん。……でも、なんか今日《きょう》、田村《たむら》の様子がおかしかったから気になっちゃって。それにね!」  にっこりと笑顔《えがお》をつくった唇には、花の色の薄《うす》いリップ。 「本当は今日、放課後《ほうかご》遊びに行かない? って誘おうと思ってたんだ。でも同窓会で無理みたいだったから……あたしが、来ちゃった」  輝《かがや》くような美貌《びぼう》を彩る、頬《ほお》を染めるバラの色。こんな場所にいてもなお、光り輝くような薄紫のオーラ。誰もが目を離《はな》せなくなる、特別に綺麗《きれい》な女。誰にとっても、多分《たぶん》「今まで見た中で一番美人」な相馬。  俺を好きだと言ってくれる、相馬。 「ほら、立ち上がりなよ、そこ汚いよ。それであたしのこと、みんなに紹介して?」  その相馬が、俺に手を差し伸べ、俺だけを見つめて、小さく首を傾《かし》げている。 「あ、あのお〜、ちょっとすいません」  沈黙《ちんもく》を破って歩み寄ってきたのは、超ファッションの高浦《たかうら》だった。チョン、と相馬の肩をつつき、 「もしかしてあなたが、『相馬《そうま》さん』?」 「……そうだけど……?」  コホン、と一度|咳払《せきばら》いをしながらバンダナで押さえた髪をかきあげ、 「と、唐突になんだけど……合コンなど、しませんか」 「しません」  なにをしてんだこいつ、という周囲の視線《しせん》を浴びつつ、薄気味《うすきみ》悪いファッションで決めた高浦《たかうら》が沈没していく。当たり前だ、相馬じゃなくたってそんな太もも丸出しのシスコン野郎とは合コンなんかしたくはなかろう。と、まるで他人事《ひとごと》のように思ったのも一瞬《いっしゅん》。 「だってあたし、彼氏いますから」 「あ、なるほど……ほほぅ……彼氏、ですか」  チラ、と高浦の視線が俺《おれ》を見た。俺は、驚愕《きょうがく》の視線を相馬に向けた。相馬は、俺を指差した。そして、 「そう。田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》。……これがあたしの田村。あたしの、彼氏」  俺を指差した手がふわりと解《ほど》けて、相馬はちょこんと俺の傍《かたわ》らに、汚い床に、しゃがみこんだ。そして俺の腕をそっと搦《から》め捕《と》り、肩の辺りに頬《ほお》をギュっと押し付け—— 「ええええええええええっっっっ!?」  ——俺の悲鳴ではなかった。  誰《だれ》かの、もしくは、誰か達の、悲鳴にも似た驚愕の叫びだ。なんで田村なんだ、という耳慣《みみな》れてしまった呟《つぶや》きがうねりながら湧《わ》き上がり、そして同時に、 「……じゃあ、松澤《まつざわ》はなんだったの……?」 「田村の奴《やつ》、あんなにつきまとって騒《さわ》いでたのに……」 「松澤はあんなにかわいそうなのに……」 「松澤は一人ぼっちなんだぞ……」  声も出ないほどの恐慌状態に陥った俺の脳に、冷たい弾丸が次々に撃《う》ち込まれる。息もできない。なにもできない。頭の中に嵐《あらし》が吹き荒れ、あうあうとただ喘《あえ》ぎ、かろうじて動いた眼球で傍《かたわ》らの相馬を見下ろし、 「……まつざわ、って?」 「ヒッ」  問いかけるような瞳《ひとみ》に捕らえられ——恐怖した。  怖くなったのだ。松澤って誰? と尋ねられ、答えなくてはいけない状況になることが、そして答えられないかも知れない自分が、そうなった時の相馬の視線《しせん》が、 「や、」  俺は本当に怖かった。だから、 「やめてぇぇぇぇぇぇ————のええええぇぇぇほあぁぁぁぁぁっっっ!」  全力で叫んだ。 「あたし田村《たむら》雪子《ゆきこ》よぉぉぉ————っ! あたしは男が好きっ、生まれた時から男が好きっ、男なしじゃいられないのよ男が欲しい男が恋しい、一人寝の夜は火照《ほて》って咽《むせ》ぶわっ、あたしの夢は夜開くのよぉぉぉ————っ!」  そしてギュッと目をつぶり、腕を跳ね上げ、しがみつく相馬《そうま》を振り払っていた。その手ごたえは、ひどく軽かった。  相馬は不意をつかれたのか、あっけなく腕を解かれてバランスを崩した。  コロリン、とおむすびかなにかのように、床に転がった。  ソファとテーブルに挟まれた空間に、転がったまま、はまり込んだ。  片足はソファの上に。  もう片足はテーブルの上に。  薄《うす》い素材のスカートなど簡単《かんたん》にまくりあがり、誰かが「水色《みずいろ》」と呟《つぶや》き、細い足がジタバタと一瞬《いっしゅん》宙を蹴《け》り—— 「や……っ」  やがて、遅すぎたかすかな悲鳴。なんとか起き上がり、スカートをちぎれそうなほどに掴《つか》んで押さえ、真《ま》っ赤《か》な顔面を子供のように歪《ゆが》め、相馬は床に座り込んでいた。  取り返しのつかないその一瞬……いや、たっぷり三秒。  責任は、俺《おれ》に。  シン、と辺りが静まり返る。 「あ……」  しまった、という思いが、ようやく胃の辺りを引き絞った。  謝《あやま》るかなにかしようとしたその瞬間、突然小さな田村くんが現れた。頼んでもいないのに、晒《さら》された水色《みずいろ》の薄《うす》い布地に包まれた丸みの画像を再アップした。 「……っぐ」  鼻血、だと思った。  いや、実際鼻血だったのだろう。あらゆるファクターが呼び覚ました猛烈な血流は俺の鼻粘膜の血管を今にもはちきれんばかりに拡張し、だが破裂する寸前、タッチの差で、慣《な》れぬアルコールで膨《ふく》らまされた胃袋が限界を迎えていた。 「……おえええええ——っ!」  這《は》いつくばったままクズかごにダッシュ。かるーく三口分、無理やり呷《あお》ったビールを外界にお返しして、 「は……吐いちゃった……」  呆然《ぼうぜん》とした。  自分でも驚《おどろ》いたのだ。俺《おれ》ったら、こんなタイミングで吐いたりして、こんなのまるで相馬《そうま》のパンツを見て吐いたみたいではないか。いや、それはそれで間違いではないような気もするがちょっと意味合いが違うというか—— 「そ、相馬……」  恐る恐る、相馬の方を振り向いた。  相馬も相馬で、呆然《ぼうぜん》と俺を見つめ返していた。  座り込んだままの相馬に手を伸べ、謝罪《しゃざい》の言葉を並べ立てようとした。だが、 「……もう、いいっ!」  手を振り払われ、叩《たた》きつけられた声は悲鳴じみていた。  相馬は俺を押しのけ、他《ほか》の奴《やつ》らにぶつかりながら、部屋から飛び出した。追いかけなくては、と立ち上がろうとして滑って転んだ。そのまま這《は》うように床を掻《か》き、ほとんど四つんばいの姿勢でその後を追う。  階段を駆け下り、店のドアを押し開き、夜の街を相馬の背中を追って無我夢中で走った。 「……これ、高浦《たかうら》が片付けてよ?」 「えぇぇっ……なんで? なんで俺……?」 「田村《たむら》の親友じゃん。ほら、店員さんに見つかったら絶対ヤバイって、トイレで洗ってきなさいよ」 「うそ……マジで……? つ、ついてねえ……呪《のろ》われてる……」        4  その肩をようやく捕まえたのは、街路灯だけが薄《うす》く光る、人気《ひとけ》のない商店街の裏路地だった。 「ごめん……ごめん! 相馬、俺……っ」 「離《はな》してよ! やだってばっ! やだあっ!」  相馬は暴《あば》れて俺を押しのけようとするが、この手を離すわけにはいかない。このまま帰すわけにはいかない。 「頼むから話を聞いてくれ! 落ち着けって!」  あちこち引っかかれ、引っぱたかれながら、必死に声を上げる。人が見たら警察《けいさつ》でも呼ばれてしまいそうな光景だとは思うが、 「聞くことなんかないっ、離してーっ!」  相馬の興奮《こうふん》は収まらなかった。どうしたらいいか俺だってわからず、とにかく必死に肩を掴《つか》む。だが、 「おまえ、これっ……」  それ以上は言葉にならない。目の前が真っ暗になる。  相馬《そうま》の背中に赤いものがべったりとついていたのだ。まさか、血か? 転んだ時にグラスかなにかで切ったのか!? 「もうやだ、離《はな》してって、あっ……!」  唐突に相馬のバランスが崩れた。そのままよろけ、慌てて支えようとした俺《おれ》の手を振り払って尻《しり》から地面に転んでしまう。 「……いったぁ……」 「だ、大丈夫かよ!? ていうかおまえ、背中見せてみろっ!」  立ち上がれないらしい相馬の傍《かたわ》らに屈《かが》み込んだ。飛びつくように背中の怪我《けが》を確認《かくにん》しようと手を伸ばし、ようやくその匂《にお》いに気がついた。 「あ……なんだ……なんだこれ……よかったああああ……っ!」  思わず脱力し、泣きそうになる。赤い染みは血ではなく、カシスソーダだった。転んだ拍子に床に零《こぼ》れたのがついてしまったのだろう。 「……え? なに? ……うそ……っ」  だが相馬にはそれでも十分にショックだったらしい。ニットを伸ばして染みを確認し、声を詰まらせる。しかも相馬のサンダルのヒールは、今走ったせいなのだろうか、無残に折れてしまっていた。このせいでバランスを崩したのだ。 「最悪……サンダルも壊《こわ》れちゃった……」  相馬はサンダルを脱ぎ、折れたヒールが二度とくっつかないことを理解し、——切れた。 「……あんたのせいよっ!」  両足のサンダルを鷲《わし》づかみにして思い切り俺に投げつける。一方は俺の胸に当たり、一方は向かいの閉まったシャッターへ。静まり返った夜の街に、相馬の癇癪《かんしゃく》そのもののような大音声《だいおんじょう》が響《ひび》き渡る。 「日曜日《にちようび》に買ったばっかなのに、もうダメになっちゃった……サンダルだけじゃない、服もだよ、スカートにも染みてるし……全部これじゃもう着れないじゃんっ! 全部、日曜に買ったばっかで、今日《きょう》初めて着たやつだったのに……っ……ばっかみたい、こんなことなら買い物なんかしなきゃよかった……!」  座り込んだまま、相馬は悔しそうに顔を歪《ゆが》めた。自分に言い聞かせるように、低い声で言い募る。 「……ほんとに、あたしはばかだ……『新しい服』なんか、いらなかったんだ。買わなきゃよかったんだ。……なにやってんだろ、あたし……」 「ク、クリーニングに出せばだいじょ」  パンッ! ……と小気味いい音を立て、父さんにもぶたれたことのない左頬《ひだりほお》が鳴った。反射的に「ぶったな!?」と詰め寄りそうになるが、 「そういう、意味じゃ、ない……!」  俺《おれ》に向けられた相馬《そうま》の瞳《ひとみ》が水気を孕《はら》み、街灯を映しながら揺れるのを見てしまう。  その一瞬《いっしゅん》で、俺の下らない言葉なんか喉《のど》の奥で消え果てた。しかし雫《しずく》を零《こぼ》す寸前で、相馬はグイ、と拳《こぶし》で目元を拭《ぬぐ》い、まっすぐに俺を睨《にら》み据える。 「あんたは、あたしを見て、全然喜んでくれなかった。迷惑そうにして、あたしを……突き飛ばした。そういうことよ。あたしのことなんか嫌いってこと。あたしなんてどうなってもいいってこと。……そういう、ことよっ!」 「な、なに言ってんだよ!」  あまりの言いように、思わず言い返さずにはいられない。 「だって、そりゃおまえ……いきなり来られたら、喜ぶより先に驚《おどろ》くだろうが! それに急に『彼氏』なんて言われて、あせらない方がどうかしてるだろ!」 「……ああそう、じゃあ全部あたしが悪いんだ……田村《たむら》は、あたしが悪者だって、そう言いたいんだ!」  うぐぅ、と頭をかきむしりたくなる。  確《たし》かに相馬にひどいことをした。被害者は相馬で加害者は俺で、謝《あやま》るべきはこの俺だ。でも俺だって人間なんだ。驚いたり、判断ミスしたり、偶然だったり、運が悪かったり、そういうことがあるっていうのも認めてくれてもよくはないか? 「そうじゃないって! なんでわざわざそう曲解するんだよ! ……来る前にちゃんとそう言ってくれれば、俺だってちゃんと対応できたって言ってんだ! それに第一、」  言ってしまってもいいだろうか、と迷った時には、 「……第一、俺は、おまえの『彼氏』か!?」  そんなセリフがすでに口から出てしまっていた。愕然《がくぜん》とする。自分で言ったことに、自分がショックを受けている。それほどに、これは痛い言葉だった。相馬にはもっと、痛かったはずだ。  言葉に詰まるのは、今度は相馬の番だった。髪を乱したまま街灯の下で俺と睨み合い、こんな時でも眩《まぶ》しく光る綺麗《きれい》な瞳を見開き、そして、 「——わかってるわよっ!」  悲鳴そっくりな声を上げる。 「あんたがあたしの彼氏じゃないことなんて、言われなくてもわかってる! でも、でも……っ、彼氏だって言われて、あんたがそんなに嫌《いや》がるなんて、そんなのは……わかんなかったっ! 田村がそんなふうだから、あたしだってこんなふうにしなきゃいけなかったんじゃないっ! こんなふうにさせたのは田村なのっ! 田村が悪いのよっ!」 「はあ!? お、俺が!? いや、そりゃ俺は悪いが、そんなふう、こんなふうって、一体なにがどんなふうだって言いたいんだ!?」 「田村《たむら》がはっきり態度で示してくれないから、わからないんじゃないっ! わからないから、知りたいって思うんじゃないっ! ……田村の気持ちがわからないって蜂谷《はちや》先生に相談《そうだん》したら、『第三者の前で自分をどう扱うかで気持ちはわかる』って……それ、本当だったみたいだね、よ————っっくわかったわよ! あんたがあたしをどう思ってるか!」  あ、あの腐れ毒果実……っ!  ふぉっふぉっふぉ、と高笑いする汚い大人《おとな》の姿が刻まれた部分の脳みそメモリーが、小さい田村くんの登場を待つまでもなく、一瞬《いっしゅん》にして焼き切れた。よくもよくも、余計なことを!  立ち上がり、俺《おれ》を突き飛ばして走り去ろうとする相馬《そうま》を、しかし決死の覚悟で再び捕まえる。 「ちょっと待てって! 落ち着けよ! 誰《だれ》がおまえを嫌いだのなんだのって言ったんだ! 勝手に決め付けるなよっ! そんな言い方して楽しいのか!? とにかくまずは落ち着いて、俺の話をちゃんと聞け!」  きっ、とさらにきつく目を眇《すが》め、相馬は一呼吸分たっぷりと、俺を真正面から睨《にら》みつけた。 「じゃあ、あんたの『話』とやらを、聞いてあげるわよ」  もう容赦はしない、と、その視線《しせん》が告げる。 「——『まつざわ』がどうのこうの、って言ってたよね。さっきの同窓会にいた子たち。あれ、なに? どういうこと?」 「……っ」  街灯の人工的な光の下、人通りのない暗い路地。  対峙《たいじ》した、俺《おれ》と相馬《そうま》。一瞬《いっしゅん》の、沈黙《ちんもく》。  相馬の顔が自虐的《じぎゃくてき》に歪《ゆが》んで笑《え》みに近い表情を作るのを見た。俺は釘《くぎ》で縫《ぬ》い止められたみたいに、身動きひとつ取れずにいた。 「顔色、変わった。そうなんだ。やっぱり、そうなんだ。あたしが思ったとおりなんだ。その子が、『まつざわさん』が、田村《たむら》の彼女なんだ。……田村は、あたしと浮気しようとしたんだ」 「ち、」 「違うの? 違わないでしょ! 田村は新しい学校に来て、彼女の目の届かないところであたしにちょっかい出そうとしてたのよ! だからあたしに近づいたんだ! ばれちゃって残念だったね、もうあたしのことなんかなかったことにしたいよね! そうすればいいじゃない! 最低……最、低っ! 二度と話しかけないでよ! この先一生、放っておいて! ……危うく騙《だま》されるところだったっ!」  自分の言葉で自分を傷つけ、相馬は苦しげに息を吐いた。噛《か》み締《し》めた唇が色を失っていく。しかし黙《だま》ってなんかいられずに、 「……違う!」  俺は叩《たた》きつけるように声を上げていた。  両手を広げ、相馬の前に立ちふさがる。必死に首を振り、声を絞り出す。 「それは違う! 松澤《まつざわ》は、俺が、中学の時に好きだった奴《やつ》だ! ほんとにほんとに好きだったけど、でも……彼女じゃない! それに『浮気』とか『ちょっかい』とか、そんな気持ちでおまえに近づいた覚えだってない! それはあんまりだぞ! 本当におまえのことが心配で、どうにかして力になりたくて、本気で味方になりたかったんだよ! おまえが傷ついたり泣いたり学校に来なくなったりするのがものすごく嫌《いや》だった! だからその気持ちに従って行動したんだ! 松澤がどうとかは関係ないっ! それが信じられないって言うなら……おまえがそれが本当かどうかもわからない奴なら、もう言うことはねえよっ!」 「……っ……」  目をつぶってなにも見ず、かぶりを振ってなにも聞かず、ただ必死に俺の胸の内を吐き出す。ここで止まってしまったら、二度とこの口は開かない。 「松澤は、今はずっと遠くにいるんだ! 松澤に告白してすぐに、あいつは家の事情で遠くに引っ越して行って、しばらくは手紙のやりとりがあったけど、それが突然|途切《とぎ》れてしまって、俺はあいつに忘れられたと思ったんだ! ずっとそう思ってたんだ、だけど……今日《きょう》、さっき、わかって……手紙が来なかったのは俺を忘れたからではなくて、俺の無神経な手紙に返事ができなかったせいで……だから俺は……俺は、どうしていいかわからないんだよ! すっかり忘れられたって思ってたのに、そう気持ちを整理《せいり》しようとしてたのに、それなのに……そうじゃないかもしれないって、今になって……っ! 松澤《まつざわ》がどうしたいのかわからない、どうすればいいのかわからない、俺《おれ》は、なんにもわからないんだ!」  相馬《そうま》の肩を掴《つか》み、がむしゃらに喋《しゃべ》った。妙なことを言っているかもしれないし、めちゃくちゃなことを言っているかもしれない。でも、わかってほしかったのだ。  目を閉じ、荒げた息をついてうなだれた俺の頭上、相馬の呟《つぶや》きが落ちる。 「……『まつざわさん』の気持ちがわからないなら……聞けばいいじゃない、聞きに行けばいいのよ。行けないなら、電話でもなんでもすればいいのよ」 「……」  無言でただ首を振った。  だってもう、届かないのだ。松澤に俺の声は届かない。どんな想《おも》いも、もう届かない。もう手遅れなのだ、俺はとっくに間違えてしまっていた。 「……聞かないの? これからもずっと……わからないままでいるの? 自分がどうしたいのか、それさえもわからないの? ずっとわからないままでいるってのが、それがあんたの望みなの? ……あんた、それは……」  相馬の声に滲《にじ》んだのは、もはや怒りなどではなかった。  もっと静かで、もっと胸を引き裂くような、泣くよりももっと泣いているような、そんな声だった。  多分《たぶん》それは——悲しみ、という奴《やつ》だったと思う。 「それは、なんなのよ……そんな、そんな中途半端な気持ちでいるなら……それなら、なんであたしを助けたの? ——なんで、あんなに優《やさ》しくしたのよ……っ! どうしたいかもわからないのに、どうなるかも知らないのに、なんであたしに触れたりしたのっ! あたしは……あたしは、あんたとは、違う……っ! 触れられれば応《こた》えたいし、自分のその気持ちだってわかってるし、あんたにもわかってもらいたいって思ってる! この気持ちは、どうしたらいいのよ!? あんたから……あんたから、始めたんじゃない! なのにそのあんたがわからないんなら、受け取れないなら、この気持ちはどうしたらいいの!? どこへ捨てたらいいの!? 教えてよっ! どこに捨てたらいいのよぉっ!」  答えるべき言葉は、見つからない。 「……あんたに、わかる? この服、この靴、買ったときのあたしの気持ちが。……あんたがデートに誘ってくれるかもしれないって、じゃあ服買わなくちゃって、日曜日《にちようび》……あんたから誘いの電話が来てもいいように、午前中のうちに買い物すませなきゃって……あたし……そういう気持ちが、あんたに、わかる……? それとも、それも、そんなことさえも、わからない?」  声は喉《のど》に貼り付き、身体《からだ》は動かすこともできず、ただ相馬の顔を見返していた。何も言えなくなり、何か言う権利なんかないと思えた。ただ愕然《がくぜん》とし、相馬の言葉を何度も何度も反芻《はんすう》し、自分のしたことを考え、そして、一秒、二秒、……三秒。  失望させるには、十分な時間が沈黙《ちんもく》のまま過ぎて。 「……あんたは、わからないんじゃなくて、なんにも考えてないんだよ。あたしじゃなくても、『まつざわさん』じゃなくても、泣いている人の姿が見えたら、そっちに突っ走らずには、いられないんだよ」  震《ふる》える声が、俺《おれ》に告げる。 「……それはね、ぜんぜん、優《やさ》しさなんかじゃない。……ものすごく……ものすごく! 残酷な、ことだよ」  突き飛ばされたことにも、ろくに気がついてはいなかった。あ、と思ったときには、相馬《そうま》の肩から手が離《はな》れていた。  バランスを崩してよろけながら、顔を上げる。走り去っていく背中に、慌てて手を伸ばす。しかし指先は宙を掻《か》く。声も出せず、相馬の名前も呼べないまま、それでも走ってその後を追う。  だけど追いつけやしなかった。  素足の相馬は一度も振り返らずに大通りへ出ると、タクシーを捕まえた。そのまま乗り込み、ドアが閉まり、追いつけないスピードで車は走り出した。  小さくなっていくリアウインドウを、俺はただ呆然《ぼうぜん》と見送っていた。  ひどいことをしてしまった女の子が、一人ぼっちで、靴も失《な》くしたまま帰っていくのを、見送ることしかできなかったのだ。なんにもできなかった。間抜けヅラのまま、いつまでもそこに立っていることしか。  耳の奥に、遠い世界のクラクションだけが——。      ***  ——それでも、相馬は翌日、ちゃんと学校に来たのだ。 「相馬……」 「おっ! おっはよーう相馬さん!」  また相馬が学校に来られなくなったらどうしよう、と自分の席に座ったまま教室のドアを睨《にら》みつけて硬直していた俺の前に、そして事情も知らずに能天気な挨拶《あいさつ》をする小森《こもり》の前に、相馬はちゃんと現れた。  ホームルーム前のざわめき。  朝の光。 「あ〜、もしかして今日《きょう》も田村《たむら》弁、持ってきてるとか? 相馬さんて料理うまいよな〜、俺も食ってみたいよ、田村《たむら》、ひとっくちも分けてくれないんだよな〜!」  敬礼のポーズで軽口を叩《たた》くバカな小森《こもり》。  そういった『いつもどおり』の風景をかきわけて、相馬《そうま》は教室に入ってきた。  だけど俺《おれ》は、相馬、と一声かけたきり喉《のど》が詰まったようになって、それ以上の声をかけることはできなかった。 「……あれ? 相馬さん……? え〜っと……無視されちゃった風味? ……なあ田村、ツンドラ女王さま、今日《きょう》は機嫌《きげん》悪《わる》いんかね……?」  小森の耳打ちに、ごまかしの笑《え》みを浮かべることもできない。  何も聞こえないかのように、相馬は黙《だま》りこくっていた。視線《しせん》をこっちに向けることもなく、静かに、まるでこの世には自分しか人間などいないかのように、表情も変えずに席についた。  その白い横顔に、憔悴《しょうすい》の色を見つけるのはたやすかった。  赤みを失った頬《ほお》も、背中に乱れた長い髪も、乾いた唇も、俺が毎日見ていたいつもの相馬ではなくて——なぜだろう、一回りも身体《からだ》が小さくなってしまった気さえした。たった一晩で、体型まで変わるわけはないのに。  それでも、俺の目には、そう見えていた。  細い肩や背中の骨まで、透けて見えそうに思えていた。  隈《くま》のうっすらと浮いた目元を隠すように俯《うつむ》き、相馬はそれっきり、顔を上げようとはしなかった。  それっきり。  ただの、一度も。 「じゃあ、そうね……相馬さん。この問題を黒板で解いてみて」  退屈な物理の授業もやっと半ばを過ぎた頃《ころ》。  教師に指された相馬は、静かに黒板に向かい、ノートを広げながらチョークを手にした。硬い音とともに、整《ととの》った字が連ねられていく。  しかし数式の途中で、相馬の手は止まった。教師がおや、という顔をして、相馬の表情を覗《のぞ》き込む。 「どうしたの? 簡単《かんたん》な計算式じゃない。これまでの授業でやったのと同じやり方でやればいいのよ?」  相馬の手は、止まったままだった。長い髪を垂らした背中は、ノートを覗き込んで丸まったまま微動だにしない。  沈黙《ちんもく》の時間が静かに進み、普通なら、そろそろクラスの誰《だれ》かが冗談《じょうだん》で助け舟を出したり茶々を入れたりする頃合だった。だが、相馬にそんなことができるような奴《やつ》はいなかったし、なにより教師の咎《とが》めるような固い声が、クラス全体を萎縮《いしゅく》させていた。 「相馬《そうま》さん、だめよ。簡単《かんたん》な問題なんだから、ヒントは出せない。解けるまでがんばりなさい。ハイ、他《ほか》の人もちゃんと解くのよ!」 「……すいません」  かすれた声で、相馬は小さく呟《つぶや》く。隣《となり》の席の女子が、他の女子に小さく「ついてないね相馬」と囁《ささや》いたのが聞こえる。物理の教師は機嫌《きげん》しだいで生徒への当たり方を変えるので有名で、今日《きょう》の相馬はかなり不運な方だと言えた。いまだ孤立状態にある相馬をして、同情してもらえるほどに。 「あら! この間ちゃんと言っておいたのに、あなたノートを写させてもらってないじゃない!」  チョークをもったまま動かなくなった相馬のノートを覗《のぞ》き、教師が声を上げた。 「どうして早く言わないの! これじゃ問題を解けるわけがないじゃないの!」 「あ……すいません……」  そうだった。  相馬の方を見られなくなり、顔を伏せる。そういえばノートを写そうとして放課後《ほうかご》の教室に残ったとき、まだ途中だったのに、俺《おれ》が一人で大騒《おおさわ》ぎして相馬を追い返したのだった。 「仕方ないわね。誰《だれ》か! 今度こそちゃんと相馬さんにノートを写させてあげて! ハイ、誰かいないの! ほら相馬さん、お願《ねが》いしなさい。誰に頼むの?」 「え……あの……」 「ホラ! あなたたちはちゃんと問題を解きなさい! 手を休めないで!」  教師は相馬を一人、教壇《きょうだん》の上に残したまま、自分は床に降りて生徒たちのノートを検分し始める。  一段高いところに残され、相馬はおせっかいな教師の背中を戸惑ったように見た。だが教師はお構いなしに机の間を歩いていって他の生徒の質問に答え始め、相馬をそのまま放置する。誰かにノートを見せてもらう約束をするまで、相馬を晒《さら》し台から下ろすつもりはないらしかった。  誰一人、余計な声を上げる奴《やつ》はいなかった。  そして相馬も、黙《だま》りこくったまま俯《うつむ》いていた。当たり前だ、相馬には挙げられる名前など一つもないのだから。  男どもの誰かが手を上げるかとも思ったのだが——この張り詰めた緊張感《きんちょうかん》は、「憧《あこが》れの美少女にお近づきになりたい」というぐらいの気持ちでは破ることはできないようだった。  沈黙《ちんもく》のまま、時間だけが過ぎる。勉強家の誰かが、浪費される授業時間に苛立《いらだ》ったように、わざと音を立ててシャーペンを机に放り出す。晒し台の上の相馬は、声をなくしてしまったように、ただそこに立っている。 「相馬さん? どうしたの、まだなの。……はいはい、そっちも質問?」  無神経な教師が相馬を見もしないまま声をかけ、相馬は返事もできずにいた。白い顔をますます青白くして、怯《おび》えたように目を見開き、ノートをもった手をダラリと下げ——その指が、震《ふる》えるのを見た。  小さく震え、ノートが滑り落ちそうになるのを見た。  耐えられたのは、ここまでだった。 「先生!」  手を上げ、立ち上がった。クラス中の視線《しせん》が、一斉に俺《おれ》へ向けられた。  ぐ、と詰まりそうになる声を、必死に絞り出した。声は震えていないだろうか。背中の震えは気づかれてはいないだろうか。誰《だれ》にもおかしく見えていないだろうか—— 「俺、前にノート貸す約束してたんですけど、都合で貸せなかったんです。だから俺が悪いんです。今度こそちゃんと貸すんで、問題ないです!」 「ああそう。よかったわね、相馬《そうま》さん。じゃあ席に戻って」 「……」 「相馬さん?」  ——促されてもしばらくは、相馬はその場から動けずにいた。すぐ目の前の席に戻れず、一段高い壇上《だんじょう》から、自分の後ろの席で突っ立っている誰かの顔を見つめていたのだ。  呆然《ぼうぜん》と——いや、疲労しきった野生動物の顔つきで。  そこに立ちすくみ、一歩も動けないままで、おそらく現在最も憎いであろう相手の顔を、声も上げずにただ見ていたのだ。 「これ、持って帰れよ。明日《あした》また授業あるから、今日中《きょうじゅう》に写さないとまずいだろ」  なんでもない風に言ってノートを机の上に置いてやると、相馬はややあってゆっくりと、顔をかすかにこちらへ向けた。  まだ数人の生徒が残る、放課後《ほうかご》の教室。  無視されるものとばかり思っていたから、視線がぶつかり、気まずく息を飲む。 「……宿題、出たじゃない。ノートがないとあんたも困るでしょ。……急いで写すから、待ってて」  ひどく久しぶりに聞いた気がする相馬の声は、覚えていたのよりずっと硬く、感情を見せずに小さく響《ひび》いた。  相馬がノートを写す間、席から離《はな》れ、窓の外をじっと見ていた。この時間では、まだ日は翳《かげ》らない。通りを歩く下校していく奴《やつ》らの影《かげ》が、まだ濃《こ》く長く、石畳に落ちているのが見える。  教室に残っていた奴らが一人減り、二人減り、次第に静寂が重く増した。そういえばいつも、相馬と放課後の教室で、こんな風に静けさを恐れていた気がする。  相馬という奴のことがわからなくて、恐ろしくて、とにかく美人で緊張《きんちょう》して、俺はいつもオロオロとしていた。そうやって困ってあせりながら、俺《おれ》はいつも、相馬《そうま》がなにを思っているのか、それを探ろうとしていた。  俺は結局、自分で全部|壊《こわ》してしまうまで、それを見つけることはできなかったのだけれど。 「……田村《たむら》」  驚《おどろ》きを飲み込み、静かに振り返る。 「これ……字が汚くて、数字が読めない。7なのか1なのか……こっちも……」 「……そうか、すまん」  顔を上げずにそう言う相馬の席へ近づき、椅子《いす》を引きずってきて、隣《となり》に座った。確《たし》かに雑な数字を指差しながら、読みにくいところを訂正していく。 「これが実は1で……これは小数点なんだ。それで……」  相馬は黙々《もくもく》とそれを自分のノートに書き入れ、俺は自分でも判別の難《むずか》しい数字にぶつかって目をこらし、教室に残っていた最後のグループがドアを開いて出ていき、 「……こっちは多分《たぶん》……1じゃなくて、2、だな……」  ——無音。  シン、と教室が静まったのと、相馬の手が止まったのはほとんど同じ瞬間《しゅんかん》だった。  そして——止まっていたシャーペンを握った手が、小さく震《ふる》えるのを見た。 「相馬……」  パキン、と小さな音を立て、芯《しん》が砕ける。 「……っ、……っ、っ、……」  声を出さずに、相馬は泣いていた。  息を詰め、顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》め、それでも声は上げずに泣いていた。  俺のノートに、相馬のノートに、涙の雫《しずく》が途切《とぎ》れず落ちた。 「……こ、んなのは、……やだよ……っ」  それは、いつからこらえていた涙だったのだろう。絞り出された声とともに、炎が上がりそうなほどに熱《あつ》い雫が俺の手の甲にも落ちた。次から次へと火を孕《はら》んだ涙の雫が、俺の手の甲を濡《ぬ》らしていった。 「……田村……お願《ねが》い……。ねえ、お願い、だから……っ」  息を継ぎ、相馬は苦しげな声を上げる。そして、他の手を両手で掴《つか》んだ。  涙に濡れた熱い手が、俺の手を、助けを求める溺《おぼ》れた人のように、ものすごい力で握《にぎ》り締《し》めた。そして、 「お願いだから、あたしを、」  握り締め、かじりつくように引き寄せて、胸の辺りに抱え込んでそのまま身体《からだ》を小さく丸めたのだ。俺の手を、俺なんかの手を、必死に抱きしめるようにして。  そして、言った。 「……あたしを……好きに、なってよ……っ」  その後はもう声にならない。  子供のように相馬《そうま》は泣き、俺《おれ》の手を心臓《しんぞう》の位置に押し付けて離《はな》さず、机にうつ伏せて肩を震《ふる》わせた。  俺の手は、もう一本だけ空いていた。  その手で、そっと相馬の頭を撫《な》でた。  小さくしゃくり上げながら、やがてその吐息が静けさを取り戻すまで。  逃げるように小走りに、相馬が帰ってしまうまで。  俺は、ずっと、ずっとそうしていた。相馬がそれを許してくれるなら、永遠にだってそうしたいと思っていた。      ***  田村《たむら》くんへ。  手紙、どうもありがとう。住所を教えなかったのは、本当に忘れていたからなのです。田村くんが想像しているようなことはないので、一応安心してください。  こっちは、すごく田舎《いなか》です。学校まで自転車で通うことになりそうです。  伯父《おじ》と伯母《おば》はとても優《やさ》しくしてくれます。ただ、私が急に同居することになったので、家をリフォームするとかで、最近ちょっとばたばたしてます。  また手紙を書きます。  松澤《まつざわ》小巻《こまき》  田村《たむら》くんへ。  修学旅行のお土産《みやげ》、どうもありがとう。六波羅探題《ろくはらたんだい》タオルは部活で大事に使います。お礼にイカの塩辛《しおから》をクール宅急便で送ったので、食べてください。ウニの瓶詰めと迷ったけど、やっぱりイカにしました。イカが口に合うといいけれど。  こっちの修学旅行は、夏休み前に終わってしまっていました。残念だけど、みんなとお風呂《ふろ》に入るのがちょっと不安だったので、安心したような気分もあります。  先週、体育祭がありました。大玉転がしで転がされてしまい、鼻血が出て恥ずかしかったけど楽しかった。  また手紙を書きます。  松澤小巻  田村くんへ。  ごめんなさい、先月の体育祭の写真は送れません。伯父にプリントアウトしてくれるように頼んだのですが、門外不出なのだそうです。なので質問にだけ答えるけど、こっちの学校はブルマです。だけど、どうしてそんなことを聞くの?  そちらの文化祭の写真、送ってくれてありがとう。田村くん、武士の扮装《ふんそう》がよく似合っていると思いました。だけど、一体なんの劇《げき》だったのですか? 他《ほか》の人たちは、みんなドレスを着ていたよね。何時代なんだろう? ちょっと不思議《ふしぎ》です。  また手紙を書きます。  松澤小巻  田村くんへ。  今年《ことし》は新年の挨拶《あいさつ》は欠礼がどうたらこうたらなので、年賀状を出せなくてごめんなさい。かわりに手紙を書きました。  とうとう受験《じゅけん》ですね。お互い合格目指して頑張ろう! お餅《もち》の食べすぎに注意!  今年もよろしくお願《ねが》いします。  松澤《まつざわ》小巻《こまき》  ——欲しかった言葉は、やはりどこにもなかった。  夕食を終えて部屋にこもり、小一時間。  情報量の異様に少ない松澤からの手紙は、これで全部、隅から隅まで読み返した。ほとんど全部暗記しているが、それでもじっくり、真剣に読んだのだ。  これが届くたびに『ギュン!』と心臓《しんぞう》が締《し》め付けられて息苦しくなったのを覚えている。封筒のシールがハートだったと言っては息もできないほど悶絶《もんぜつ》し、その次はセロテープ止めだったと言っては、夢に見るほどクヨクヨと思い悩んだ。  そして毎回、開封するたび、「これだけかよ!」と叫んだものだ。  なにもあの松澤にラブレターを書けとは要求しない。でもせめて、寂しいとか、会いたいとか、少しでも好意を感じさせてくれる部分はないのかよ、と。文頭を縦《たて》に読んでみたり、斜めに可能性を見出《みいだ》してみたり、アナグラムを疑ってみたり、必死に松澤の思いの形跡を探そうとしたのだ。  そして、見つけられなかった。 「あとは……これだ」  手を伸ばし、ライトに結びつけたままのお守りを手に取った。握ってみて、そういえばこうしてみるのも久しぶりだと思う。  お守り袋の中で、カサカサと小さな紙が手の平に触れる感触。受験《じゅけん》の時は、会場でカイロとこれをずっと一緒《いっしょ》に握《にぎ》り締《し》めていたのだ。  じっと見つめ、考える。  これを捨てることが、自分にできるだろうか。  かすかな望みをかけつつ、大事に箱に入れてずっとしまってあった手紙を、松澤が最後にくれたお守りを、……それらに残る、松澤のわずかな残り香を、捨ててしまうことが本当にできるだろうか。  捨てられれば——相馬《そうま》の想《おも》いに応《こた》えることができるのだろうか。相馬はあんなふうに泣かずに済むのだろうか。  これを捨てられれば。  手紙を送れなくなった松澤の気持ちを、そして「相馬さんって誰《だれ》?」と尋ねてきた松澤の気持ちを捨てられれば—— 「……松澤……」  ——一体、今はどうしているのだろう。  怪我《けが》はどうだったのだろう。  ちゃんと無事に、帰れたのだろうか。  そんな気持ちを、全部忘れることができるのだろうか。  こんなふうに考えてしまうのは、松澤《まつざわ》に無神経な手紙を送り、その納采として関係を壊《こわ》してしまった、という罪悪感のせいなのだろうか。  息をつき、椅子《いす》の背もたれに体重を預けた。  なんにしても、結論《けつろん》は出さなければいけない。このままでいることはできないのだ。それだけはとにかく確《たし》かだった。  これ以上、はっきりしない態度を取って、相馬《そうま》を泣かせることは絶対にできない。だから—— 「雪貞《ゆきさだ》、電話だぞ」 「うおっ!」  唐突にドアが開けられ、ほとんど椅子ごと飛び上がった。 「ノ、ノックぐらいしろって十三年ぐらい言い続けている気がするぞ!?」 「高浦《たかうら》くんが、なにか緊急《きんきゅう》[#「きんきゅう」は底本では「きんちょう」]事態みたいだけど」  人の話をまったく聞かない兄貴から電話の子機《こき》を奪い、やけくそのように声を出した。 「もしもしっ!? 高浦か!?」  だが、しかし。 「……高浦……?」 「どうしよう……っ、田村《たむら》、俺《おれ》、どうしよう……!」  聞こえてきたのは、ほとんど涙声と判別のつかない焦燥《しょうそう》にくぐもった声だった。 「え? ……おい、ちょっと、落ち着けよ。どうしたんだよ」 「……松澤になにかあったら、俺……、……俺のせいだよ……っ!」  ギク、と心臓《しんぞう》が冷えた。  まさか—— 「松澤になにかあったのか!?」 「さっき、松澤のうちから電話があったんだ。今日《きょう》、松澤は陸上部の遠征から、新幹線《しんかんせん》でみんなと一緒《いっしょ》に帰ってきているはずだった。……なのに、地元の駅について、電車を降りて点呼してみたら、松澤がどこにもいないんだって。……どこかに、行っちゃったんだって……! 怪我《けが》、してるんだってよ! 昨日《きのう》のレースで転倒して、骨折してる状態なのに、行方不明《ゆくえふめい》なんだって!」 「……な、んだって……?」 「俺が悪いんだよ! 先週、俺が松澤に電話して相馬《そうま》さんの話をして以来、あの時から松澤は様子《ようす》が変だったって松澤のおばさんが言うんだ! だから、多分《たぶん》あれで松澤、傷ついて……松澤が大変な思いをしてきた子だって知ってたのに、俺、なんで無神経にあんなこと言っちゃったんだろう! どうしよう、田村《たむら》、どうしよう!」 「……それは……それは、おまえ……」  違う。  松澤《まつざわ》になにかあったのなら、それは全部、俺《おれ》のせいだ。  俺の卑怯《ひきょう》さが、俺の馬鹿《ばか》さが、招いたことだ。  焼け付きそうな頭で、どこか呆然《ぼうぜん》とそんなことを考えていた。全部俺が悪いのだ、と。だけど、だけどそんな場合なんかではなくて、 「と、とにかく、向こうでは警察《けいさつ》にも相談《そうだん》するって言ってる。多分《たぶん》、なにか思うところがあって、松澤は自分の意思で、こっちに残っているんじゃないかって。転校前に過ごした街だし、その可能性は高いって。な、行こう田村! 手分けして探すしかないよ! それしかできないよ! 俺、今から三Bの奴《やつ》らにも連絡網回して協力を」  松澤が、姿を、消した——  手から子機《こき》が滑り落ち、音を立てて床に転がった。まだ高浦《たかうら》の声は続いていたが、拾うこともできなかった。  どうして。  どうして、こんなことになってしまうんだろう。なんで、うまくいかないんだろう。  それは松澤が言っていた言葉だ。  なんであたし、いつもこうなんだろう。なんでうまくいかないんだろう、と——そうだな松澤。なんで、こうなんだろう。こうなってしまったんだろう。  なぜこんなことばかり起きなくてはいけないんだ。なぜ、幸せになれない。どうしてうまくやれない。  なぜ、俺は、こんなにも人を苦しめてばかりいる。こんなことになるなんて思っていなかったのに。人を苦しめたいと思ったことなんか、一度だってなかったのに。  俺が松澤を追い詰めたのか。こんなことになるほど苦しめたのは、俺か。  ただ、どうしていいかわからなくて、ハガキに返事を出さなかった。会いに行っても、この声をおまえに届けることができなかった。  その結果が、これか。  ああそうだ——それから相馬《そうま》だって、傷つけたのは俺だ。あんなふうに泣かせて——絶対に傷つけたくなんかなかったのに。  それもこれも、全部俺が、招いたのか。  よろめきながら立ち上がった。呆然《ぼうぜん》とこのまま立ち尽くしてしまいそうなボケた脳みそに、 「——っ!」  渾身《こんしん》の両手ビンタで気合を入れる。  呆然《ぼうぜん》としている暇なんかないんだ。今は走り出さなくてはいけないんだ。  松澤《まつざわ》を、探さなくては。        5 「……捕獲《ほかく》!」 「えっ……」  桜の花びらが舞《ま》い散る青空の下、小さな生き物を指の中に捕らえ、壊《こわ》さないようにそっと光にかざして見た。  クラス分け表の張り出された中庭で、目の前にいた女子の肩に止まっていたのだ。 「……モンシロチョウ?」  振り返り、その女子が不思議《ふしぎ》そうに顔を近づけてくる。  俺《おれ》は蝶《ちょう》の羽を挟んだ指をそっと緩《ゆる》め、その文様を見せてやった。 「違うな。これはスジグロシロチョウだ。見ろ、羽の筋に沿って黒い線《せん》が見えるだろ?」 「うん」 「モンシロチョウと混同されがちだが、ここを確認《かくにん》すれば一目瞭然《いちもくりょうぜん》! 天網恢恢《てんもうかいかい》疎《そ》にして漏《も》らさず!」 「へえ……詳しいね。……虫、好きなの?」 「かつては昆虫博士だからな! だが今の俺は鎌倉《かまくら》博士《はかせ》! なのでおまえに未練はなし! てぃっ、さらばだスジグロよ!」  思わず捕まえてしまった白くて小さな蝶を空に放ち、元気でなー! と手を振った。 「ええと……元気でね〜……」  肩を休息所にされていた女子も、俺の真似《まね》をして手を振った。お人よしな奴《やつ》だ、と、思わずそいつの顔を見た。  ショートカットというには長い髪に、色の白い小さな顔。かわいい部類、だとは思った。こんな時には一応身元を明らかにしておくのが、思春期男子の心得だろう。改めてもじもじと、 「……お、おまえ……じゃなくて、君も三年だよな? な、なに組?」 「わからない。……まだクラス分け、見てないから」 「え……」  ……グズだなあ、とは、さすがに言わない初対面の俺たちだったのだが。  張り出された紙を一人で見に行く背中を見送り、しみじみ、ぼやっとした奴だと思う。みんなとっくにクラス分けなんか見終わって、さっき散々わーわーきゃーきゃーやっていたではないか。  そして再会は、それからほんの教十分後。一年間過ごすことになる、新しい教室で。 「……松澤|小巻《こまき》です。よろしくお願いします」  ——その名前を聞いた瞬間《しゅんかん》、なぜだろう、きゅうりとカイワレを巻いた手巻き寿司のビジョンが浮かんだ。  それが、俺《おれ》と松澤《まつざわ》の初対面だった。  そして、今。 「雪貞《ゆきさだ》? こんな時間にどこに行くのよ!」  驚《おどろ》く母親の声を振り切って、上着も着ずに玄関を飛び出した。階段を一息に駆け下り、門をこじ開ける。  もう、蝶《ちょう》は探さない。  今探すのは、松澤だ。もしも本当にこの街に奴《やつ》がいるのなら、心当たりは——どこだ。どこだろう。 「……ええと、ええと……」  道に迷った子供のように、夜の街へ延びる道路を見渡した。右を見て、左を見て、 「そうだ、松澤の家……っ」  右だ。  落ち着いて方角を定めた気になっているが、走ろうとする足は、うまく動いてくれない。気ばかりが急《せ》いて前のめり、壊《こわ》れたロボットみたいにガクガクと不器用にアスファルトを蹴《け》る。  自覚しているよりもずっと、俺はこの事態に恐れをなしているらしい。  人気《ひとけ》のない住宅街に、足音だけが響《ひび》いた。湿気を帯びた空気は意外なほど冷たくて、たちまちに喘《あえ》いだ喉《のど》が冷える。耳が冷える。服の中が、冷える。  だいたいなんだ——向こうについてから姿が見えないのに気がつかれた、って、存在感がないのにもほどがあるだろう。途中の駅で土産《みやげ》でも買っていて乗り遅れたのだろうか。一瞬《いっしゅん》そう思ったが、やはり違う。それならそれで、連絡のしようなどいくらでもあるはずだ。  やはり松澤は、自分の意思で、姿を消したんだ。  それか——なにか、不可抗力の事態が起きて、 「……ぱっ! ぱっ! ぱっ!」  そんなこと、考えたくもない! とにかく今は、走るんだ! 走り終えてから考えればいい!  恐怖に沈みそうになる心をごまかしごまかし、やがて、松澤がかつておばあさんと一緒《いっしょ》に暮らしていた家に辿《たど》り着いた。あの夏の日、日射病で倒れた嫌《いや》な思い出のある場所だ。  切れた息を整《ととの》え、手がかりを求めて家を見上げる。しかし窓の雨戸はすべて閉まっていて、明かりがついているかどうかもわからない。  すがりつくように呼び鈴を押した、だが、中で鳴っている様子《ようす》はない。思い切って門を開こうと押してみるが、南京錠《なんきんじょう》つきの鎖《くさり》でくくられていて、錆付《さびつ》いた鉄が軋《きし》んで嫌《いや》な音を立てた。手にびっしりと、錆が付着する。 「……いないんだ……ここじゃ、ない……」  数か月分の『不在』を感じ、汚れてしまった手を擦《こす》り合わせながら、呆然《ぼうぜん》とその古い家を見上げた。  ここには、もう誰《だれ》もいないんだ。もしかしたら、この家の所有者さえ、もう松澤家《まつざわけ》の人間ではないのかもしれない。 「う……」  不意に、押《お》し潰《つぶ》されそうになる。  そこにいた人の記憶《きおく》だけを内包して、俺《おれ》の前に建っているもの。  まるで幽霊船《ゆうれいせん》のように、闇《やみ》の中にあり続けるもの。  その——「そこにはいないもの」の重みに、喪失感に、立ち向かう勇気が萎《な》えそうになる。松澤の不在に、改めて今さらショックを受けているのだ。 「……だめだ! 次!」  その意味を考え始めてしまう前に、逃げるように走り出す。他《ほか》に松澤が行きそうなところを考えてみる。  松澤は新幹線《しんかんせん》で地元へ帰るはずだったと聞いた。その集合場所——おそらくは駅で姿を消したのだから、もしもこの街に来るとすれば、電車を使っているはずだ。  そうだ、駅だ。  そう思うなり方向転換、最寄《もより》の駅へと走った。今、駅にはいなくても、なにか手がかりはあるかもしれない。他《ほか》にはなにもないのだ、どんな小さな可能性だって当たってみなくては。  静まり返った住宅街が途切《とぎ》れ、コンビニや飲み屋の明かりに照らされた通りへ出た。人の流れに逆らって駅のコンコースに突入、肩をぶっけては頭を下げて、改札へ向かう。ちょうど都心からの電車がついたのか、ひとつしかない改札からは一気にたくさんの乗客があふれ出してくるところだった。 「あっ、失敬……ちょっと通して下さい! すいません!」  家路を急ぐ人の群れの間を縫《ぬ》い、学生服の女の子がいれば反射的にその顔を覗《のぞ》き込み、しかし松澤の姿はない。 「おい、あぶねえな!」 「すいません!」 「ガキが騒《さわ》いでんじゃねえよ! ったく」  ぶつかってしまった若いサラリーマンに叱《しか》られ、その場にうずくまりたくなる。しかしそんなことをしている場介てはないのだ。必死に己《おのれ》を奮《ふる》い立たせ、改札口へと向かう。小さな窓から駅員室へ声をかける。 「すいません! あの、人を探してるんですけど……女の子で、高一で、この辺では見ないような制服を着てると思うんです! 見ませんでしたか!? 背はあんまり高くなくて、ちょっと挙動不審《きょどうふしん》っていうか、危なっかしい感じの……あと、そうだ! 怪我《けが》をしてるはずです! 足か、腕か……骨折してるんです!」  俺《おれ》の声に一人の駅員が近づいてきてくれたが、困ったように手を顔の前で振ってみせた。 「いや、今すぐはちょっとわからないなあ。それ、何時ごろの話?」 「……ちょっと、それは……全然わからないっていうか……」  そもそも、本当にここを通ったかどうかも定かではないのだが。 「うーん、難《むずか》しいなあ……この改札を出たなら監視《かんし》カメラに映ってるはずだけど、時間がわからないんだったら、すぐには確認《かくにん》できないねえ」 「緊急事態《きんきゅうじたい》なんです! すぐ確認してください!」 「と言われても……緊急事態って?」 「行方不明《ゆくえふめい》になってて……あの、遠いところに住んでる奴《やつ》なんですけど、もしかしたらこっちに来てるかもしれないんです! 電車でこっちに来たなら、とにかく駅に行ってみたらなにかわかるかも、って思って、だから俺……」 「う〜ん……そうかあ……そういうことならもちろん協力するけど、ビデオは十何時間分もあるし、時間はかかると思うよ」 「い……いいです! それでいいですから、確認してみてください!」 「それと、一応聞いておくけど、警察《けいさつ》には連絡してある?」 「は、はい。その、彼女の地元の方で、行方不明って事で通報してあるって」 「そうかぁ、それならアレだけど……ねえ。最近はほら、物騒《ぶっそう》だから。こっちも協力するけど、うん、早く見つかるといいね」  ——アレだけど、って。  駅員のその言葉に、目の前が真っ暗になった。  それらしい女の子を見つけたら自宅に電話をもらえるように言って、駅を後にした。一度公衆電話から高浦《たかうら》の携帯に連絡を入れたが、松澤《まつざわ》はまだ見つかっていないと言う。  ——最近はほら、物騒だから。 「ぶ、ぶっそうって……なんだよ……っ」  心当たりはもう弾切れで、夜の街をあてもなく走り回る。コンビニを覗《のぞ》き、こわそうな奴らがたまっている公園で耳を澄《す》まし、自宅の前まで戻って、また街へ駆け出す。  そうしている間にも、駅員の言葉がずっと耳の底に貼《は》り付いていた。最近はほら、物騒だから。 「……そんなの、わかってるよ……!」  わかっているから、こんなにも必死に松澤《まつざわ》を探しているんじゃないか。  足はすでに棒のようになり、汗が冷えて鳥肌が立つ。喉《のど》はヒューヒューと音を立て、腹も背中も痛み出した。  家を出てから、もう何分が経《た》つだろう。どんどん夜は更《ふ》け、それでも松澤は見つからない。そもそも、本当にこっちに来ているのかどうかもまだわからない。どの時点で姿を消したのかさえもはっきりしていない。新幹線《しんかんせん》が走る距離《きょり》は、当たり前だがばかみたいに長い。いくつもの県をまたぎ、大都市を越え、この街と松澤の地元を繋《つな》いでいる。どこか途中で降りたのかもしれないし、自分の意思ではなくて、誰《だれ》かに降りさせられたのかもしれない。  でも誰かって—— 「……っ」  ——あまりにも恐ろしい想像に、吐き気がした。  捕まって、だとか。攫《さら》われて、だとか。  どこか遠い、知らない街、だとか。  打ち消そうとしても打ち消せない。真っ黒な染みが広がっていくように、ジワジワと恐怖に侵食されていく。  あの小さな松澤が、この夜の中で、家に帰れなくなっているのだとしたら。  この真っ暗な夜の中で。ひとりぼっちで。  怪我《けが》をしているのに、誰《だれ》かがそんな松澤を—— 「ま……松澤……」  急激《きゅうげき》に鼓動が跳ね上がった。息もうまくできなくなって、苦しくて声を上げて喘《あえ》いだ。早く——早く見つけてやらないと。  走り出そうとして、しかし足が止まった。  自分以外には誰もいない、公園の脇《わき》の小さな通りで、とうとう立ちすくんだのだ。両手で口元を覆《おお》い、そこから一歩も歩き出せなくなった。  だって、この俺《おれ》に見つけられるのか? 俺にはあのとき、なんにもできなかったじゃないか。目の前で転倒し、立ち上がれない松澤に、俺はなんにもできなかったじゃないか。この声も腕も指先も、想《おも》いもなにも、届かなかったじゃないか。  そういう距離を、作ってしまったじゃないか。  こんな俺に、どこにいるかもわからない松澤を、見つけ出すことができるのだろうか。  できなかったら——どうなるんだ。  どうなってしまうんだ。  冷たい風が吹いた。夜が一層|濃《こ》くなった気がして、呆然《ぼうぜん》と天を見上げた。そして見たのだ。 「あ……っ……」  真っ黒な、恐ろしいほどに真っ黒な雲が、風に流されて月へと忍び寄り、やがてそのすべてを覆《おお》い隠すのを。 「松澤《まつざわ》が……家に、帰れない……」  全身の力が一気に抜けて、立っていられずにアスファルトに膝《ひざ》をついた。これじゃあ、あいつは帰れない。月の光があいつの家路を照らす唯一の道しるべだったのに。これじゃあ松澤は帰れない。家に帰れない。  そんな。  松澤が家に帰れなかったら、永久に見つけられないじゃないか。  もう、会えないじゃないか。 「……やだ……そんなの、いやだ……っ! いやだっ!」  全身が一気に震《ふる》え上がった。冷えたアスファルトに座り込み、いやだ、いやだと繰《く》り返した。叫ぶように声を上げながら、凍《こご》えそうな人のように震えながら、自分の両手をちぎれるほど強く掴《つか》み締《し》めていた。  どうしよう。  このまま、本当に松澤に会えなくなってしまったらどうしよう。  本当に「これっきり」になってしまったらどうしよう。  永遠に会えなくなってしまったら、いつか伝えよう、と思っていたことが、全部言えなくなってしまう。そんな簡単《かんたん》なことが、今になってやっと本当に理解できた。  全然、わかっていなかったのだ。  あの競技場《きょうぎじょう》で、俺《おれ》は泣いた。  だけど泣きながら、何一つ、本当にはわかっていなかったのだ。永遠に会えなくなる覚悟なんか、少しもできてはいなかった。  もしかしたら——本当にもしかしたら、松澤になにか恐ろしいことが起きて、永遠の別れになるのかもしれないという事態になって、俺はようやく震え出していた。  ずっと言いたかったのだ。「もっと手紙をくれよ!」「俺のことを好きかどうか答えろ!」 「付き合ってくれるのか!」……松澤が引っ越して行ったそのときから、ずっとずっとそれが言いたかった。  だけど、言えなかった。言える時には、言わなかった。いつもいつも、ごまかしていた。 「いつか」という言葉に逃げ込んでいた。——答えを聞くのがこわかったから。否定されないうちは、肯定の可能性を妄想して楽しんでいられたから。のらりくらりと、心地《ここち》いい「無責任さ」に浸《ひた》っていられたから。  それが、この結果だ。  松澤が姿を消し、助けに行かなくてはいけないのに、俺には助けられない。俺は馬鹿《ばか》で無力で、松澤になにもしてやれない。  弱くて弱くて、今まで逃げることしかできなかった。  松澤《まつざわ》と向き合おうとしなかった。松澤のことが好きだったのに、忘れられるのも嫌われるのも、自分が傷つくのも、とにかくなにもかもが怖くて、向き合うことができなかった。  こんなのが、自分なのだ。田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》なのだ。自分がこんな人間だったなんて、今初めてわかった。大嫌いだ、こんな奴《やつ》は。消えてなくなってしまえばいい。  こんな奴には、きっと見つけられない。この夜の中で松澤は泣いているかもしれないのに、俺《おれ》にはあいつを助けてやれる力なんかない。だけど—— 「……まつざわあ……っ」  だけど。 「……」  真っ暗な夜の中、ボタボタボタ、と情けない涙が頬《ほお》を伝った。それを、払った。  俺は再び走り出したのだ。もがくようにジタバタと、みっともなく、だけど全力で。  なんにもできないかもしれないけれど、もう届かないかもしれないけれど、だけど、それでも、松澤を助けたいんだ。  松澤。  おまえに嫌われたって、忘れられたっていいよ。  だけどおまえが助けを待っているなら、俺はどうしても、おまえを助けたいんだよ。おまえにつらい思いをさせたくないんだ。  息さえ止めて、俺はがむしゃらにとにかく前へと走り続けた。届かない距離《きょり》でも、もう間に合わない距離でも、それでも走るしかない。一ミリでも先にこの指を伸ばし、一ミリでも松澤の近くに届けるしかない。  届かなくても、届けるしかないんだ。そうすることしか、俺にはできない。  だからどうか、神様。  もしも本当にいるなら、松澤を見てくれているなら。 「神様仏様|閻魔様《えんまさま》……松澤のお母さん、お父さん、兄ちゃん、ばあちゃん……っ」  誰《だれ》でもいい、この地上で道に迷っている松澤をどこかで見ていてくれる奴がいるなら。  あの雲の向こうから、あの空のかなたから、あの月から、松澤の声を聞いていてくれるなら。  松澤の電波を送受信できる耳があるなら。 「どうか松澤を、導《みちび》いてやってくれ! ……お願《ねが》いだから……お願いだからっ! 俺のところまで、導いてやってくれ!」  この俺の指が届くところまで、この俺の声が届くところまで、どうか松澤を導いてやって下さい。  そしてこんな俺に、どうか力を貸して下さい。あの女の子を、助けられる力を下さい。この指で触れ、この声で名を呼び、救い上げられる強さを下さい。どんな場所からも引き上げる力を下さい。戦い、守れる力を下さい。  俺《おれ》はあまりにも愚かで、あまりにも弱くて、こんな俺のままではとても誰《だれ》かの力になどなれそうにないんです。 「……お願《ねが》いします……お願いします……!」  無我夢中で祈りながら、どこへ向かっているのかも自分ではわからなかった。それでもどこかにいるはずの松澤《まつざわ》を探して、ひたすらに前へと進むしかなかった。  馬鹿《ばか》なのかもしれない。正気ではないかもしれない。それでも走り続けていれば、この距離《きょり》を少しでも縮《ちぢ》められるのではないかと——  そのときだ。  街灯に照らされてアスファルトに落ちる自分の影《かげ》が、一瞬《いっしゅん》、輪郭《りんかく》を濃《こ》くした気がした。反射的に頭上を見上げて、 「——あ」  息を飲んだ。雲が、漆黒《しっこく》の雲が、晴れていく。  黄金の満月が、再び夜の天に眩《まばゆ》く姿を現していく。  そして雲間から差した白銀の月光が、連なる家の軒の向こう、大きな建物を青白く照らしだした。  それは—— 「学校……!」  俺と松澤が通っていた公立の中学校の校舎だ。クラスメートとして出会い、マラソンを日課《にっか》にしていた松澤につきまとい、笑ったり誤解したり怒ったり驚《おどろ》いたり——毎日を騒《さわ》がしく過ごしていた、あの学校だ。  迷いはしなかった。月が、導《みちび》いてくれている。そう信じるしかなかった。手がかりはもはや他《ほか》にないのだ。俺は月から松澤を見下ろしている誰かの存在を信じる。  最後の力を振り絞り、あえぎながら走り出した。  ぜえぜえと喉《のど》を鳴らして住宅街を抜け、一本道を転がるように学校へ向かう。なんとかたどりついた正門が閉じているのに舌打ちして、とにかく中へ進入しようと、脇《わき》へ回り込んでグランドの周囲を囲むフェンスへとよじ登った。  そして、 「あぁっ!」  思わず、声を上げていた。その拍子にバランスを崩し、ボタッと植え込みの中に落ちる。つつじにむき出しのすねやひじを引っかかれたが、それどころではない。痛みをこらえてすぐに起き上がる。  月光に照らされた、懐《なつ》かしいグランド。  そこに背中を向けて立っているのは——俺の気配《けはい》に気がつき、ピクリと震《ふる》えてゆっくりと振り返ったのは。 「……うっ……?」 「マンボ……っ!」  松澤《まつざわ》小巻《こまき》、その人だった。      ***  不似合いなほど大きなスポーツバッグを斜めがけにした華奢《きゃしゃ》な立ち姿。  見慣《みな》れない、ワンピースとボレロを合わせたような制服。  風に揺れる髪は少し伸びて、軽やかに肩の辺りで躍《おど》っている。  左腕を三角巾《さんかくきん》で痛々しく吊《つ》って、俺《おれ》を見つめている。  月光に照らされて、ガラス服みたいに透ける眼差《まなざ》しは、やはりあの頃《ころ》のままで—— 「ま、まつ……」  声がうまく出ない。  汗に濡《ぬ》れたボロボロの姿で、涙と鼻水でものすごいことになった顔のままで、俺は這《は》うように松澤に近づいた。ゆっくり、ゆっくりと。 「松澤……みんな、心配してるぞ……?」  松澤《まつざわ》はなにも言わず、キツネリスのように目を丸くして身体《からだ》を硬直させている。なにかに怯《おび》えているような、下手《へた》に近づいたらそのまま爆発《ばくはつ》しそうに思える表情で。  まるで、手負いの獣《けもの》のようだ。  だから唇を湿らせ、驚《おどろ》かせないように、限界まで抑えた声音《こわね》で必死に語りかける。 「松澤……俺《おれ》だよ。田村《たむら》。……鎌倉時代《かまくらじだい》が好きな、田村だよ。……覚えてるだろ?」  震《ふる》える手を、そっと差し伸べた。  そうしながら、十メートルはある距離《きょり》を縮《ちぢ》めようと一歩、足を踏み出した。警戒《けいかい》する動物そのものの仕草《しぐさ》で、松澤は擦《す》り寄る俺のつま先を凝視《ぎょうし》している。 「こ、」  笑顔《えがお》を作ってみせた。 「こわく、ないから……な?」  しかし松澤は、全身に緊張《きんちょう》を漲《みなぎ》らせたまま、後ろ歩きで俺から一歩遠ざかる。 「ま、松澤……?」  もう一歩近づけば、松澤ももう一歩。  人見知りなのは知っている。極度に内気なのも、気難《きむずか》しいのも、警戒心が子持ちの熊なみなのも知っている。でも。 「……なんでだよ? どうしたんだよ? 松澤、俺だぞ……? 俺は、敵じゃないぞ? そ、それともほんとに……忘れちゃったのか?」 「忘れて、ない」  ——松澤の声だった。  今にもかすれて消えゆきそうな、懐《なつ》かしい松澤の声だった。  この声だ。そうだ、松澤は、こういう声で語るのだった。 「よかった……よかった! じゃあ、ほら……こっち来いよ? な?」 「……ううん」 「なんでだよ!?」  首を振る松澤は、決して俺との距離を縮めようとはしない。月光の下にすっくと立って、ガラス玉の目でどこかしれないところを見ている。 「今日《きょう》、ここに帰ってきたのはね……私、田村くんにさよならを言いに来たの」 「……な……っ」  声が。  それ以上の言葉が、出ない。  なんだそれは? なんで、なんで—— 「大会、見に来てくれたんだよね。……ありがとう。仲のいい子がね、スタンドであたしの名前を呼んでた田村っていう人がいた、って、教えてくれた。田村くんだよね、それって」 「そ…そうだけど……それがなんで、さよならになるんだよ!」  距離《きょり》を保ったまま、松澤《まつざわ》はかすかに震《ふる》えたようだった。風が寒いのか、月光が冷たいのか、俺《おれ》の声に驚《おどろ》いたのか、俺には理由がわからない。 「……本当はね、このまま……このまま、何も言わずに、さよならするつもりだった。でもね、田村《たむら》くんは私に会いに来てくれたんだから、私もちゃんと……田村くんのその行動に見合うやり方をしないと、って……。だから、友達に協力してもらって、途中で新幹線《しんかんせん》を降りて引き返しちゃった」 「だから……っ、そうじゃなくて……っ」  走り続けた疲労もたたり、もはや大声を上げることもできなかった。 「……なんで、さよならなんだよ? ……俺が、受験《じゅけん》の後に、無神経な手紙を出したからか? それとも……相馬《そうま》のことを高浦《たかうら》に聞いて、それで」 「違う」  小さいが、しかし強い声。 「……それは全部、違う。昨日《きのう》の大会で『一等賞《いっとうしょう》』になったら、田村くんに言おうと思ってたことがあった。負けたら、さよならしようって決めてた。……見てたでしょ? 私、転んじゃった。……だから、さよならなの」  ——懐《なつ》かしい、とさえ思っていた。  この、伝わらない感じ。他人に伝える気があるのかどうかもわからない、松澤の電波うさぎ語。  だけど今はそんな場合ではなく、 「もっと……わかりやすく言ってくれよ! ……頼むから……っ」  脱力して、とうとう地面にしゃがみこんだ。  松澤はやがて、かすかに囁《ささや》く。 「……田村くんの手紙に怒って、返事を出さなかったんじゃない。その時はまだ受験中で、進路が決まってなかったから、返事ができなかった。それだけなの……別になんとも思ってない」 「じゃあ、なんでその後も手紙をくれなかったんだよ!」 「……それからしばらく経《た》って、受験も終わって、卒業式も終わって、やっと落ち着いて……。そう言えば、こんなに連絡をとってないのって初めてだな、って気がついた。それで……もしも私がこのまま返事を出さなかったらどうなるんだろう、って、思った。そうしてるうちに……田村くんからも、手紙が来なくなった。……こうやって忘れられていくんだ、って、思った」  私がこわがっていたことは、やっぱり全部現実だった。  松澤はそう付け加えて、ゆっくりと小さな顔を俯《うつむ》けた。  深呼吸を、一回、二回。  つまり、俺は、試されたのだ。  理解した瞬間《しゅんかん》、湧《わ》きあがったのは——怒りだった。 「おまえ……なんだよそれ!? そんなふうに試すような真似《まね》しやがって、おまえ最低だぞ!? 俺《おれ》が、俺がどれだけおまえからの手紙を待って……」  待っていたか。  そう言おうとして、しかし、喉《のど》が詰まった。だって言えない。言えるわけがない。手紙を出すのをやめたのは、俺も同じなのだ。松澤《まつざわ》からの手紙を待つといいながら、自分ではなにもしなかった。連絡が途切《とぎ》れたことを問うこともせずに、松澤の出方を試すようなことをしていたのだ。俺だって、同じだった。先手を打ったのが松澤だったというだけで、俺は同じ事を松澤にしていたのだ。  松澤にそうさせたのは、この自分なのだ。 「……それに、相馬《そうま》さん、っていう子のこと、別に責めるつもりはなかった。ただ、その話を高浦《たかうら》くんに聞いて、なんていうか……やっぱり変わってしまうんだ、私がこうしている間に、やっぱり田村《たむら》くんは、そうやってちゃんと変わっていってるんだ、って……それで、こんなことはもう終わりにしなきゃって、思ったの。……田村くんは生きてるんだもん。幽霊《ゆうれい》みたいな私のペースに合わせてもらうことなんかできない」 「幽霊、って、おまえ……」 「……それであのハガキを出した。田村くんがその子のことを好きなら、それで終わりでいい、って思った。もしもこれが誤解なら、きっと違うって返事がくるはずだから。でも……来なかった。それで、終わり。……つらくないわけじゃないの。だから、きちんと気持ちを整理《せいり》するために、昨日《きのう》の大会で自分自身と最後の賭《か》けをした。そして私は、その賭けに負けたの」  今にも透けて消えてしまいそうな、透き通るような松澤の顔を、信じられない思いでただ見つめ返していた。  どこから、どうやって、どんなふうに、口を差し挟めばよかったのだろう。  どの部分で、それは違う、と、俺がこの口で言えただろう。  俺は、松澤のことを全然わかっていなかった。松澤がそんなふうに思っていたなんて、悩み、考え、俺と同じように忘れられることを恐れていたなんて、俺は何一つわかっていなかった。  わかろうともしていなかった。 「……心配かけて、本当にごめんね」  しゃがみこんだまま、松澤の声が、静かな波紋のように夜に満ちるのを聞いていた。 「会えてよかった。……田村くんちに行こうかどうか迷ってたんだ。そうしたら、田村くんは私を見つけてくれた。田村くんは、やっぱり田村くんだった……最後まで、私の田村くんだった」 「松澤……ちょっと、頼むから……なあ……」  待ってくれよ。  しかしもはや、言葉にならない。 「……今日《きょう》はビジネスホテルに泊まるって、さっき家にも学校にも連絡したから心配しないで。それで、明日《あした》の朝の高速バスで帰る。……ね、ひとつ、聞かせて?」  一旦《いったん》途切《とぎ》れた声に、弾《はじ》かれたように顔を上げた。 「……お守りは、役に立った?」 「え……?」  最後の表情は——かすかな微笑《ほほえ》み。 「あのお守りは、捨ててね。……さよなら、田村《たむら》くん」  一瞬《いっしゅん》の、隙《すき》。  クルリと向けられる背中。  大きく弾むスポーツバッグ。  走り出して、遠ざかる松澤《まつざわ》。 「や、や……っ」  いやだ。  そんな。そんな、そんな、そんなそんなそんな。待ってくれ、待ってくれ、待ってくれ! 「ま、まつざわぁっ!」  松澤は一目散に逃げ去るウサギの速度で、振り向きもせずに月明かりのグランドを走り抜けて行く。  必死に追いすがろうとして、しかし膝《ひざ》が笑って走れない。無様に転び、起き上がろうと宙を掻《か》く。 「松澤、待ってくれよっ! 頼むから待ってくれよぉっ! こんなんでいいのかよ、こんなふうに別れたら、本当に、本当の本当の本当に、二度と会えなくなっちゃうんだぞ!? いいのかよぉっ! 二度と会えないってことがどういうことか、それがどんなに簡単《かんたん》にできてしまうか……」  家族とあんなふうに別れたおまえに、それがわからないわけがないだろうが!  駆け出そうとしてさらに転んだまま、必死に叫んだ。聞こえなくても、届かなくても、小さくなる背中に向かって必死に叫び続けた。 「……おまえにはっ、わかるだろうがぁ——っ! ある人間がある人間に永遠に会えなくなるのなんか、本当に簡単なんだっ、本当に、本当に……ぃぃぃっ!」  声が嗄《か》れた。  涙に沈んだ。  それでも、それでも言わなくちゃいけなかった。本当に言いたかったのはこんなことではなかったのに。 「だからこうやって会えたときには……伝えなくちゃいけないんだよぉっ おまえ本当に、それでいいのかよっ!? 俺《おれ》に全部、伝えたのかよっ! 俺は足らない、全然足らない、おまえと会えなくなるなんて、絶対|嫌《いや》だぁっ!」  松澤《まつざわ》は——  一瞬《いっしゅん》。  ほんのわずかに、一瞬。  月光の下で、打たれたように背中を震《ふる》わせた。それを、俺《おれ》は、確《たし》かに見た。  だけどその足は止まらなかった。うさぎは急には止まれないのだ。 「……松澤……っ……松澤ぁ……っ」  ようやく走り出したときには、松澤の姿は夜の闇《やみ》に溶けたように消えていた。それでも走り続け、無人の往来で何度も松澤の名を呼んだ。  公園で。  コンビニの前で。  駅で。  俺の家の前で。  松澤の家の前で。  俺は何度も松澤の名前を呼び、しかし見つけられず、電話ボックスに飛び込んだ。イエローページを必死にめくり、近くにあるビジネスホテルへ手当たり次第に電話をかけた。松澤という名の女の子が部屋を取っていないか聞き続け、「そのようなお客様はご予約されていません」と答えられるのはまだマシで、怪しまれて身分を尋ねられたり、あからさまに不審《ふしん》がられたりし続けた。  それでも、結局松澤の居場所を掴《つか》むことはできなかった。  ピー、ピー、とテレホンカードが排出される音が、タバコ臭い空間に響《ひび》いていた。  その中にうずくまって、それでも俺は松澤の名前を呼んでいた。もう二度と届かないこの声は、アクリルボックスの中の空気だけを震わせ、やがて消えた。  松澤は振り向きもしなかった。  立ち止まってもくれなかった。  本当に、覚悟ができていたのだろうか。俺と二度と会えなくなるという覚悟が、松澤はちゃんとできていたのだろうか。だから松澤は、最後にああ言ったのだろうか。  さよなら、田村《たむら》くん——      ***  あの競技場《きょうぎじょう》のあのシートで、俺は一瞬だけ、すべてを忘却することで心の安寧《あんねい》が保たれるなら、それはそれで——と思っていた。  もちろんそんな利己的な考えはすぐに打ち消したし、そんな自分を恥《は》じ、責めた。  でも、そうする必要はなかったのだ。 『一年後か、五年後か、五十年後か、今わの際か。そんな未来の「いつか」を生きる俺《おれ》は、松澤《まつざわ》のことを忘れているのではないだろうか。悩んでいたことさえ忘れて、普通の日常をまぬけ面《づら》ぶらさげてそこそこに生きているのではないだろうか』  そんな考えは、すべて前提条件からして間違っていたから。  今ならわかる。  忘れられるわけなんか、ない。 「……さよなら……田村《たむら》くん……」  松澤の言葉を小さくなぞり、暗闇《くらやみ》の中、一人目を開いていた。  眠れる気配《けはい》さえない、午前三時の自室。  見慣《みな》れた天井《てんじょう》、見慣れた蛍光灯。  窓の外から入る街灯の光だけが、わずかに部屋を照らし出す。 「……さよなら……松澤……」  夜を震《ふる》わす声は、誰《だれ》の耳にも届かない。 「……さよなら……」  二度と、誰の耳にも。  俺という人間は、本当にバカだった。  松澤のことが好きだと言いながら、松澤のことを何一つわかってはいなかった。  例えば受験《じゅけん》に落ちたりだとか、俺のことで悩んだりだとか、レースで転ぶとか、そういう当たり前の人間なら当たり前に起こるだろう事態が、松澤の上にだけは起こらないと信じていた。  まるで物語の中の登場人物のように、松澤を見ていたんだ。  ひょっとしたら、本当に超能力ぐらいは使うかもしれない。そんな風にしか、彼女を見ることができなかった。  俺や高浦《たかうら》や相馬《そうま》や孝之《たかゆき》や兄貴や父さんや母さんや……当たり前の「みんな」とは、まったく別の次元に生きている存在だと勝手に思い込んでいた。  泣いた顔だって見ているのに、松澤は「特別」だと——俺と同じように迷ったり間違ったりするわけはないと、たとえば物語の中で死んだはずなのに平気な顔して再登場するスラップスティックのキャラクターのように、思っていたんだ。  それでよくも、恋をしていた、なんて言う。 「人間扱い」さえできていなかったくせに、大切にしていた、なんてよくも言う。  そしてそんな俺の愚かさが、もうひとりの女の子を——相馬|広香《ひろか》をも、傷つけているのだ。あんな風に彼女を傷つけ、苦しめ、泣かせたのは、この俺の松澤への半端で勝手な想《おも》い。それなのだ。  すべてにおいて曖昧《あいまい》で、恐ろしいことから逃げ続けた俺《おれ》が、心地《ここち》良いと思うままに、惹《ひ》かれるままに、結果を考えることさえせずに、相馬《そうま》を想《おも》ったせいなのだ。  もしも松澤《まつざわ》のおばあさんが死ななくて、俺と松澤が一緒《いっしょ》にこの街で高校生になれていたら、少しは状況は違ったのだろうか。  もしも松澤が受験《じゅけん》で合格してこっちに戻ってきていたら、少しは状況は違ったのだろうか。  ——俺がバカである以上、やはり「さよなら」だったのだろうか。  苦《にが》い感情を飲み込み、やがて目を閉じた。  松澤に言ったとおりだ。  誰《だれ》かと誰かが会えなくなるのなんて、簡単《かんたん》なのだ。  こんなふうに、終わってしまうんだ。  言いたいことは、たくさんあった。思うほどに尽きぬほどあった。いくらでもあった。無限に湧《わ》き上がった。だけどそれらは、これからすべて腐っていくだけだ。  伝えられることは永遠にないまま、この身体《からだ》の奥底で、ぐずぐずと腐って積《つ》もっていくのだ。  後悔、というのだろう。消えてなくなってしまいたいこの感情のことを。  そしてきっと俺はいつまでも、この後悔を腹に抱えて生きていく。忘れることなんか、絶対にない。ずっとずっと未来になって、爺《じい》さんになって死んでしまうまで、俺はこのことを悔やみ続ける。  いつになっても忘れることなく、永遠に会えなくなった女の子のことを、それからその子を傷つけたことを、俺はずっと、涙の記憶《きおく》とともに想《おも》い続けるのだ。  この苦さを、永遠に味わい続けるのだ。        6  卵色《たまごいろ》の朝の光が、部屋を暖めていくのをずっと見ていた。  目覚ましが鳴り、一、二、三まで数えて、ベルを止める。  いつもどおりの時間にベッドから起き上がり、いつもの手順でトイレ、洗面、歯磨きを済ませた。  リビングでは母親がおたまを片手に朝のワイドショーに見入り、外からは孝之《たかゆき》が門までの階段を駆け下りる音が聞こえていた。親父《おやじ》と兄貴はまだ寝ている。  何も変わらない朝の中に、俺はいた。  なにもかもが当たり前に、いつもと同じに動いていた。  朝飯はパスして、荷物を鞄《かばん》に詰める。今日《きょう》は古文の副読本がいる。それから体育があるからジャージ一式も。そして—— 「……捨てないとな」  デスクライトにぶら下げておいた松澤《まつざわ》のお守りを、そっと指先で解《ほど》いた。松澤が捨てて、と言ったのだ。だから、捨てるつもりでいる。  ——でも。  入試の日。合格発表を待っている間。合格したとき。卒業したとき。不安になったとき。松澤を疑ったとき。松澤を信じたとき。このお守りに触れて、このお守りを握って、まるでこれが松澤そのものみたいに感じてきたのだ。  だから、一日だけでもいいから、猶予《ゆうよ》が欲しかった。  今日《きょう》だけは、大目に見て欲しい。  紐《ひも》の部分を手に絡め、すがるみたいに握《にぎ》り締《し》める。この最後の日に、いつもどおりの日常を送る勇気がほしくて、ゴミ箱に放る代わりにそのままポケットへ押し込む。  今日が終わったら捨てるから、と、誰《だれ》にともなく約束して。      ***  信号を渡ると、やがて通りは同じ制服を着た奴《やつ》らだらけになる。  そこここで交わされる挨拶《あいさつ》、自転車のブレーキ、笑い声。  五月も間近の強い光線《こうせん》の中を、眩《まぶ》しさに目を眇《すが》めながら、俺《おれ》は一人で歩いた。空は真《ま》っ青《さお》で、こわいくらいに雲ひとつない。  そして、傍《かたわ》らを通り過ぎて行ったのは。 「……あ……」  自転車に乗った、相馬《そうま》。  相馬は少し迷ってから、しかしブレーキをかけ、俺の少し前で止まって振り返った。何を言えばいいかと逡巡《しゅんじゅん》し、 「……ちゃんと、来たんだな」  それだけをなんとか搾《しぼ》り出す。相馬は困ったみたいに視線を惑わせ、ただ小さく頷《うなず》いて見せ、再び背中を向けてペダルを漕ぎ出した。  その背中を正視することはできなくて、情けなく自分の足元を見つめた。俺は自分自身が恥ずかしかったのだ。松澤を探して街中を走り回ったあの夜に、俺が見つけたのは、史上最低の馬鹿《ばか》野郎・田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》の姿だった。相馬にこんな自分を見せるのが、心底|嫌《いや》だった。  俺は、本当に、これからどうしようとしているのだろうか。  この後悔と恥の中で、一体誰の手を取れただろう。 「おーっす、田村!」 「……あ? ああ……おっす」  背中を思い切り叩《たた》かれ、我《われ》に返って振り返ると小森《こもり》が笑っていた。その少し後ろには、メガネを光らせた橋本《はしもと》。 「なにぼーっとしてるんだよ? さっきからずっと声かけてたのに」 「え? そうか?」 「そうだよ」  橋本に苦笑され、すまん、と曖昧《あいまい》な笑いを浮かべて肩をすくめてみせた。だがだめだ、顔面の筋肉は奇妙に凝《こ》り固まったみたいで、うまく動かない。 「あれ? おまえ何持ってんの?」  握《にぎ》り締《し》めた俺《おれ》の片手に気がついたのは小森だった。 「あっ……ちょっと、小森!」 「お守りじゃん。どしたん?」  止める間もなく肘《ひじ》を搦《から》め捕《と》られ、手の中のお守りを見られてしまう。隠そうとするがときすでに遅し、橋本も覗《のぞ》き込んできて、 「なになに? 合格|祈願《きがん》? ……おまえ、いつまで受験生《じゅけんせい》気分でいるんだ」 「いや、それにはちょっとワケが……あ!」 「へっへっへ、ちょっと貸してみなって! こういうのって中に金ピカの小判とか恵比寿《えびす》さんとか入ってるんだよねー、こいつの中身はなにかな〜?」  あっという間にお守りは小森に奪われてしまった。冗談《じょうだん》抜《ぬ》きで俺はあせり、 「やめろって! ちょっとマジで……ほんっとにやめろ!」  取り返そうと小森に掴《つか》みかかる。こればっかりはシャレにならない。開いたままの傷口を、思いっきり押し開かれて覗かれるようなものだ。だが、 「あれ? なんだこれ、もう開けてあるんじゃん」 「……へ?」  袋の口に指を突っ込んで、小森はヘラヘラと笑った。そして、 「そんなわけないって、開けてないよ! だから返せって、」 「ほらほら、だって——」  ここ、紐が緩んでる。小森がそう言った瞬間《しゅんかん》。 「うっ……ぷ!」  女子たちの悲鳴があちこちで上がった。凄《すさ》まじい強風が一気に通りを吹き抜けたのだ。舞《ま》い上がる砂塵《さじん》で目も開けられず、反射的に風に背中を向けた。  そのとき。 「——あ」  緩められたお守り袋から、花びらが舞い上がったのだと思った。  太陽の光を受けて白く光るいくつもの……紙の切片だ。風に乗って俺の頭上を軽やかに躍《おど》り——とっさに手を伸ばすが届かずにそのまま舞《ま》っていってしまう。  春の空に舞う、白い蝶《ちょう》のように。  それを呆然《ぼうぜん》と見送っていた。やがて、理解していた。もう取り返せないものだ、あれは。  もう、届かないものなのだ。 「田村《たむら》、ごめーん! 俺《おれ》拾ってくるよ!」  小森《こもり》がそう言い、止める暇も与えずに走りだしたその時。  紙の切片の何枚かが、前を行く相馬《そうま》の髪に絡んだ。相馬はそれに気がつき、自転車を止め、白い蝶に似たそれらを取って確《たし》かめた。  そして、 「ご、ごめんなー相馬さん! それ、田村のなんだ。……お、怒ってる? ……あれ?」  ハンドルを掴《つか》み、Uターン。こちらへ向かってペダルを踏む。  卑屈《ひくつ》に背中を丸めた小森の脇《わき》を素通りし、自転車を止め、少し距離《きょり》を取って俺の前に立つ。 「相馬……」 「……田村……あんた、これ……これ、あんたの、でしょ」  強張《こわば》った顔で相馬が差し出したお守り袋の中身を、しかし俺は受け取らなかった。相馬の目の前で、ゆっくり首を振ってみせた。  猶予《ゆうよ》なんて、考えてはいけなかったんだ。昨日《きのう》のうちに、捨てなくてはいけなかったんだ。  だから、これでいい、踏ん切りがついた。  ——これで、いいのだ。 「それはもう、いらないモンだ。……俺のじゃない。捨てた」 「……あんた……これがなにか、わかってるの?」 「え?」  つかつかと至近距離まで相馬は歩み寄ってきた。そしてそのまま俺を殴ろうとしているかのように、 「うわっ!」  握った拳《こぶし》を頭上に振り上げて見せたのだ。殴られる。そう思って身構え、目を閉じた。  だが—— 「……あ……?」  いつまで待っても、衝撃《しょうげき》は訪れなかった。そっと目を開くと、頭の上からハラハラと白い蝶が——お守り袋の中に入れてあった紙片が、舞い落ちてきた。  相馬は俺の頭上に振り上げた拳を緩《ゆる》め、指の隙間《すきま》から、握っていた紙片を風に乗せて落としたのだ。  相馬の表情は、そのとき確かに「怒り」を浮かべていた。強張った顔を薔薇《ばら》の色に染め、眉《まゆ》を寄せ、大きな瞳《ひとみ》で俺をまっすぐに睨《にら》みつけていた。  だが、その表情が、 「あんた……本当に、これを、捨てられるの……?」  壊《こわ》れた。  ガラスが砕《くだ》けるように、静かな問いかけとともに、相馬《そうま》の整《ととの》った面がくしゃりと歪《ゆが》んだ。  その瞬間《しゅんかん》。  舞《ま》い落ちながら翻《ひるがえ》る紙片が前髪に引っかかった。それを掴《つか》んで、手の中に。そして、見た。  声も出なかった。  声も出ないまま、また一枚、一枚と、舞い散るそれを掴んでいた。  それは丁寧《ていねい》にちぎられた白い紙だった。小さな紙切れだった。  その一枚一枚に書いてあったのだ。エンピツで。懐《なつ》かしい字で—— 『田村《たむら》くんとまたマラソンができますように』 『田村くんが身体《からだ》を壊さず受験《じゅけん》に合格できますように』 『田村くんが私を忘れませんように』 『いつかまた、会えますように』 『ずっといっしょにいられる日が来ますように』  ——松澤《まつざわ》の字で、書いてあった。  小さな紙を握《にぎ》り締《し》めた。  一度、大きく息をした。  肺が膨《ふく》らみ、酸素が全身に行き渡ったのがわかった。  そして、ふつ、と血が沸いた。  やっとだ。  やっと、周波数があった。  今やっと、この瞬間《しゅんかん》にやっと、松澤が発する電波と周波数があった。やっとあいつの声が聞こえた。やっとあいつの気持ちが届いた。  どれだけこの言葉が欲しかったか——どれだけ、松澤がこう言ってくれるのを待っていたか。あんなにあんなに欲しかった言葉が、こんな近くにあったなんて。  世界の音が消えた。聞こえるのは心臓《しんぞう》の音。これは俺《おれ》の音だ。強く跳ね始めた、やっとリズムを取り戻した、俺の音だ。これが俺の音だ。俺の世界だ。  身体《からだ》が一度大きく震《ふる》えて——深呼吸。  紙切れを握り締めた手に力を入れた。  からっぽになったと思っていた。  すべてをなくして、もう立ち上がれないと思っていた。  だけど湧《わ》き上がるものは、熱《あつ》く溢《あふ》れて、張り裂けそうで、いっぱいに満ち溢れて爆発《ばくはつ》しそうなものは、まだ俺の中に——ここに、あった。  今ならまだ、この距離《きょり》も飛べる。 「あンの……」  そう思えた。  だから—— 「……グズ助がっ!」 「へっ? 田村《たむら》?」 「おい、どこ行くんだ! 学校は!?」  友人たちの声を背に、一気に地面を蹴《け》っていた。  無我夢中で走り出す。もう誰《だれ》の声も聞こえない、絶対に止まらない、二度と、……二度と立ち止まったりするものか。この足が壊《こわ》れて砕けてしまっても、俺は絶対に止まらない。  今ならまだ、きっと間に合う。  間に合うように走ってみせる。  まださよならじゃない。まだそのときじゃない。  奥歯を噛《か》み締《し》めた。顎《あご》がガクッと音を立てた。全身の骨がバラバラになりそうだった。でも限界を突破したこのスピードで、俺《おれ》は走らなければならないんだ。そしてあいつに文句を言わなければいけない。絶対に、言わなければいけないんだ!  もう飲み込まない、二度と逃げない! だっておまえ……おまえなあ! 普通お守りってもんは開けたりしたらいけないんだよっ! あんなところにあんなこと書いてたって、わかるわけないだろ罰当たり電波うさぎっ! こんなふうに全力でもってあいつを罵《ののし》ってやらなくてはいけないんだ! 一人で勝手に思い込んで、一人で勝手に帰っていくあのグズ助に、「忘れるわけないだろこの俺が」と言ってやらなくてはいけないんだ!  永遠に会えなくなる前に—— 「うぉあっ!?」  凄《すさ》まじい音を立てて回り込んできたのは、自転車だ。轢《ひ》かれかけてたたらを踏み、顔を上げ、 「……どこに行くの!」  一瞬《いっしゅん》言葉を失った。  自転車に跨《またが》っているのは、相馬《そうま》だ。急いで追いかけてきたのだろう、髪を絡ませ、息を上げ、しかし俺を強く睨《にら》みつけている。 「ねえ田村《たむら》! どこに行こうとしてるのか、ちゃんと答えて! ……逃げないで、答えて!」 「……松澤《まつざわ》を、」  逃げない。  俺は、もう、二度と逃げない。  相馬に一度深く頭を下げた。そして顔を上げ、目をそらさずに答えた。 「松澤を、追いかける!」  その瞬間、大きな星の瞳《ひとみ》が、音を立てて光を撒《ま》き散らしながら俺を見返した。焼き尽くすような灼熱《しゃくねつ》の温度で、相馬のオーラが炎を上げた。認めるしかない。今、この瞬間、相馬は世界中の誰《だれ》よりも綺麗《きれい》だ。なぜと言われてもそうなのだから仕方がない、間違いなく相馬は世界一の美人だ。  そして、 「——乗って!」 「えっ!?」  叫んだ声に問い返す。こいつは今、なんて言った? 「いいから乗れって言ってんの! あんたが走るよりは絶対速い! 追いかけるんでしょ!? よくわかんないけど……つきあってあげる!」 「わ……」  考えている猶予《ゆうよ》はなかった。 「悪いっ!」  凄《すさ》まじい勢いで方向転換、ペダルを踏み込む相馬《そうま》の自転車の後ろに飛び乗る。行くよ! と相馬が声を上げ、俺《おれ》はブレザーの裾《すそ》を思い切り握り、登校する生徒たちと真逆の方向へ一気に走り出す。  緩《ゆる》い下り坂を猛烈な速度でぶっちぎり、二人分の体重を乗せた二つの車輪《しゃりん》は悲鳴のような音を立て、そして相馬も、 「あーっ!」  唐突に叫ぶ。 「こっちでいいの!? 行き先聞いてない! いいの!? いいの!?」 「あぁっ、そうだ行き先、行き先は……」 「わかんないの!? ばっっっかじゃないのぉ!? どーすんのよっ!」 「いやわかる! あれだ、あの、高速バス乗り場だ!」 「ええとそれなら……うん、大丈夫! 電車に乗るよりこのほうが速い!」 「うわあっ!」  ギャギャギャ、とものすごい音を立て、膝《ひざ》を地面にすりそうなほど車体を倒し、相馬は曲がり角に突進。言っておくがこれはチャリだ、こういう挙動は、 「ぬおぉぉぉ———っっっ!」 「ちゃんとつかまってなさいっ、まだまだ飛ばすわよぉっ!」  あまり好ましくありませーん! 「そ、相馬|塾長《じゅくちょう》っ、あぶな———いっ! もうちょい安全に行ってくれ———っ!」 「あんたは黙《だま》って座ってりゃいいのよっ! あたしがあんたを、絶対に連れて行ってあげるんだから! あたし決めたの! ……さっき、答えたあんたを見て、あの瞬間《しゅんかん》に決めたの! 絶対に、松澤《まつざわ》さんのところに連れて行くんだって!」  喘《あえ》ぎながらペダルを漕《こ》ぐ相馬の背中が、一瞬、ほんの一瞬だけ、深い呼吸に震《ふる》えたのがわかった。 「だってあたし……田村《たむら》のたった一人の味方だもんっ! こんなの、ほんとのほんとは死ぬほど嫌《いや》だけど……でもしょうがないじゃんっ! あたしはあんたの味方なんだもんっ!」  こめかみが、カッと熱《あつ》くなる。  俺はこんなにも相馬を傷つけたのに——こんなにひどいことをしているのに。 「相馬……っ」 「無駄口《むだぐち》はおしまい! ギャーッ!? あんたどこ触ってんのよ!? 掴《つか》んでいいのはブレザーの裾までって言ったでしょっ!? 振り落とすわよっ!?」 「相馬……」  そうして爆走《ばくそう》することおよそ十五分。電車の駅で三つ分。大通りに出て人を避けつつ、ターミナル駅の大きな屋根の下を目指して相馬《そうま》はひたすらにペダルを漕《こ》ぎ続け、 「あっ!? うそ、あれ! 田村《たむら》見て!」  高速バスのロータリーを指差した。その指の示す先で、停車していた一台の高速バスが扉を閉めたところだった。バスの後部に表示された行き先は、松澤《まつざわ》の住む県の県庁所在地。 「あれだぁっ!」  だが、行ってしまう。走り出してしまう。頭が真っ白になったそのときだ。 「きゃあ!」 「うあっ!」  ロータリーの歩道の段差を上がり損ね、自転車は斜め前方へコントロールを失って跳ねた。俺《おれ》と相馬はそのまま地面へ転がり、 「だ、大丈夫か!?」 「行って! 早く、急いでっ! 行かなきゃぶっ飛ばす!」 「……すまんっ!」  叫んだ相馬を背後に残して駆け出した。懸命《けんめい》に足を蹴《け》り出す。必死に腕を伸ばす。  だがバスはとっくに発進してしまっていて、車道に飛び出そうとするが路線《ろせん》バスが入ってきて危うくはねられそうになり、横断歩道の信号はもう赤で、回り込もうにも—— 「……は、はぁ……はぁ、はぁ、はぁ……っ……」  ——倒れ伏した。  バスは行ってしまった。追いつけなかった。一瞬《いっしゅん》拳《こぶし》を地面に叩《たた》きつけるが、俺はもう泣かない。痛む肺を押さえながらなんとか立ち上がり、 「……だい、大丈夫、か……?」  まだ自転車と一緒《いっしょ》に座り込んだままの相馬のもとへと歩み寄った。スカートからむき出しの膝小僧《ひざこぞう》がすりむけて、見るからに痛そうに血が滲《にじ》んでいる。  格好悪く息を切らしながら、立たせてやろうと手を差し伸べた。 「痛いだろ、ごめんな……俺のせいだ……ほら、掴《つか》まれ」  だが、 「……助けないで!」  相馬の声に驚《おどろ》いて、思わずその手を引っ込める。相馬は座り込んだままで俺を見上げ、荒い息の下から途切《とぎ》れ途切《とぎ》れに言葉を継《つ》ぐ。 「ちゃんと、聞かせて……お願《ねが》いだから、今日《きょう》こそは、ちゃんと。……あたしはやっぱり、田村が好きだ。色々考えたけど……あたしは、泣いている人のところに駆けつけずにはいられない田村が好き。そういう田村だから、好き。……ごまかさないで、返事をちょうだい。あたしはあんたのたった一人の『彼女』になりたい。……それは、だめ?」  俺《おれ》を見据える相馬《そうま》の瞳《ひとみ》は、諦《あきら》めることを知らないまっすぐな瞳。眩《まぶ》しいほどに輝《かがや》いて、燃《も》えるみたいに熱《あつ》い目だ。 「俺は……」  俺は、本当に、こういう相馬に憧《あこが》れていた。  綺麗《きれい》で、まっすぐで、弱くても戦おうとする最強の意地っ張り、相馬に心から憧れていた。  だから答えたのだ。 「……俺は、松澤《まつざわ》を追いかけずにはいられない。松澤を失えない。おまえのことも好きだけど、松澤と決着をつけないうちは、おまえに恋することはできない」  認めてしまおう。  誰《だれ》がなんと言おうと、俺は相馬のことが、好きなのだ。言葉とは思いっきり矛盾《むじゅん》しているが、好きなのだから仕方がない。  だからこそはっきりと、逃げることなくそう答えた。  相馬が好きだからこそ、失いたくないからこそ、松澤に恋している自分のことを話さなければならなかった。相馬の前で、情けない自分では絶対にいたくなかった。おかしな話だと思うが、相馬はそういう『ごまかしのきかない奴《やつ》』で、そして俺は、そんな相馬が好きなのだ。  相馬は、 「う……うえええ〜ん……っ」  泣いた。  恥も外聞もなく、声を抑えることもなく、俯《うつむ》いて顔を隠すこともせず、子供のように座り込んだまま、倒れてしまった自転車の傍らで、わんわんと大声を上げて泣いた。真《ま》っ赤《か》になった頬《ほお》を、すりむけた膝小僧《ひざこぞう》を、握《にぎ》り締《し》めた手を、透き通った涙が春の雨みたいに濡《ぬ》らし続けた。 「……あら、ちょっとあの子達……」 「ひどい……DVかしら……」  周囲の冷たい視線《しせん》が刺さり、 「やっ、そのっ、違うっていうか、違わないっていうか……相馬! なあ、頼むから泣《な》き止《や》んでくれ! ほんっとうに悪かった! だから……なあ相馬!」  そっと手を差し伸べるも、その手を思い切り叩《たた》き返される。 「うええええええ————んっ! ひどいよお、田村のばか、裏切り者、浮気者、最低最悪ばい菌男、偏差値不足のニート候補っ! ふええええええ————んっ!」 「な、なんてことを……」  なだめすかして、相馬をようやく自転車の後ろに乗せることができたのは、十分ほど存分に罵《ののし》られた後だった。  二人乗りで学校へ戻るために走り出す。俺《おれ》が初めてペダルを漕《こ》ぎ、後ろに乗せた相馬《そうま》の体重を預かった。 「……おまえのことも好きだけど、ってあたりが、いやらしいわね」  相馬は涙の余韻《よいん》にしゃくりあげながら、しかし強がって意地を見せ、 「おふっ!」  ドスッ、と俺の背中を殴りつけてくる。……背後をとらせたのは失敗だったかもしれない。 「……でも、あんたがそういうずるい奴《やつ》でよかった。好きな子一筋、他《ほか》の女なんか目に入らない、ってタイプじゃなくてよかった。あたしがあんたに救われたのは、なにがどうあっても真実だもん。あんたが味方になってくれたから、あたしは今こうしてられる……なにがあっても、あんたはあたしの味方だってわかってるから。……でもさ、今日《きょう》はあたしにあやまってよ。一万回、ごめんっていって」 「ごめんごめんごめんごめんごめん……」 「……飽《あ》きた」 「……あのな」  口では無茶《むちゃ》を言いながら、相馬は額《ひたい》を、背中にトン、とくっつけてきた。その温度でわかる。相馬はいまだにしゃくりあげながら、しかし懸命《けんめい》に泣くのをこらえているのだ。  そして罵倒《ばとう》の言葉は、俺を救うために。  俺が落ち込んでしまわないように、相馬は気を使って必死にめちゃくちゃなことを言い連ねている。それぐらいのことは、この俺にだってちゃんとわかる。  ——だから、決めていた。  相馬の重みをしっかりと両足で踏み支えながら、決めていた。  今度こそ、俺はちゃんと、自分の力で自分に立ち向かわなければいけない。逃げることなく、自分の弱さと向き合わなければいけない。  今度は俺の番なのだ。  想《おも》いをこめたお守り袋を捨てさせる決意をした松澤《まつざわ》。  意地でも強がって、「本当の」涙は見せない相馬。  相馬も、松澤も、俺の好きな女の子は、本当に強くて逞《たくま》しいのだ。そうあろうとして頑張っているのだ。俺は今まで二人のことを、『弱々しく泣いている、助けてあげなくちゃいけない女の子』だと思っていた。だけど手を伸ばしてみれば、そんな女の子の姿はまるで幻だったみたいに、勢いよく弾《はじ》けて消えた。  かわいそうな女の子など、いなかったのだ。  いつだって弱々しく泣いて、助けを求めて、情けなく逃げ回っていたのはこの俺だった。俺が一番、弱かった。  とても強くてとても眩《まぶ》しいあの女の子たちのように、今度は自分が自分に立ち向かわなければならない。  誰《だれ》にも恥ずかしくないような、強い自分に、ならなきゃいけない。  だから——      ***  学校から帰るなり、俺《おれ》は全身全霊《ぜんしんぜんれい》を込めて、 「お願《ねが》いしますっ!」  土下座《どげざ》をした。 「……は?」  相手は母親。場所はリビング。鞄《かばん》もブレザーも投げ出して、顔面を絨毯《じゅうたん》に擦《こす》り付ける。 「な、なに? どうしちゃったの?」 「何も言わずに俺に金を貸してください、三万円……いや、四万円お願いします! ゴールデンウィークには短期バイトをやって必ず返します! そして外泊することをお許しください! これから出るバスに乗って、松澤《まつざわ》の住む町に行くんです! 高速バスは一日二回、明日《あした》の朝の便で帰ってきます!」 「……はあ? 松澤さんの町って……昨日《きのう》は無事に見つかったんでしょ? なんであんたがまた行くのよ」 「なにも聞かずに、ぅお願いぃしますぅぅっ!」  人間の限界を超える土下座で、俺はほとんど脳天で倒立するような体勢になっていた。こんなとき、親に頭を下げないといけない子供でいることが悔しいが、それでもそうしなくてはいけない。 「ちょっとちょっとちょっと! 首の骨折れちゃうわよ!」 「ぅぉお願いぃ、すぃますぅぅ〜っ!」  グ、グググ、と身体《からだ》が持ち上がりかけたとき、ようやく母親が「わかったから!」と色よい返事をくれた。  必ず電話することを約束し、松澤の家に迷惑をかけないことも誓い、結局五万円を借り受けて、俺は着替える暇もなく、制服のカッターシャツのままで家を飛び出した。  すこし肌寒い夕暮れの街を、駅へ向かって小走りスタート。学校から電話をかけて、すでにバスの予約はとってあったが、こんなときに限って俺という奴《やつ》は清掃当番なのだ。手早く切り上げたつもりだったが、結局間に合うかギリギリの時間になってしまった。  無事に乗れれば日付が変わる頃《ころ》に向こうにはつくはずで、そこからはタクシーに乗るつもりだった。その先は——さすがに分からない。会ってもらえないかもしれない。だけどあの「さよなら」に対抗するには、会いに行くしか手段はないと思った。  だから俺《おれ》は行く。資金は借金だし、こんなよれよれのナリだけど、俺は行く。松澤《まつざわ》に会う。そう決めたのだ。  電車で二駅、朝に来たばかりの高速バスのロータリーを擁《よう》するターミナル駅に到着した。改札を出てロータリーに向かい、乗るはずのバスを探す。と、それらしき奴《やつ》が発車準備を万端に整《ととの》えた風情ですでにエンジンをかけているのを発見。 「待ってください! 乗りまーす!」  コンビニに寄るのは諦《あきら》めて、慌ててバスへと駆け寄った。行き先を確認《かくにん》して、息を切らしつつタラップを上がる。薄暗《うすぐら》い車内は気が滅入《めい》るほどにタバコ臭く、シートは見るからに窮屈《きゅうくつ》そうだ。だがこれも試練。松澤が耐えた試練なら、きっと俺にも耐えられる。  時間を見ると、発車時刻まではまだ二分ほどあった。声を上げてしまったことが急速に気まずくなってくるが、車内は思ったよりもすいていて、俺に注意を向けている乗客はいない。 「……はあ……」  ようやく落ち着いて、窓の外を見る。  座席からはロータリーの様子《ようす》が一望できて、これでは朝の大騒《おおさわ》ぎを松澤に見られていても不思議《ふしぎ》ではないように思えた。あんななりふりかまわないザマを、松澤はどんな気持ちで見ていたのだろう。  ポワ〜ン、田村《たむら》くんステキ(はあと)  ……ではないことだけは確《たし》かだ。いきなり憂鬱《ゆううつ》な気持ちになるが、 「……行くって、決めたんだ」  グッ、と腹に力を入れて、背筋を伸ばして真正面を向いた。それと同時に、出発のアナウンスが流れる。ガス圧の抜ける音がして扉が閉まる。  バスがゆっくりと動き出した。俺はああ、と感極まった。走り出したら、もう引き返せない。ただまっしぐらに、行くべき場所へ向かうのみだ。これぞ、これぞ……いざ松澤! 「いいぞ、俺。頑張れ、俺。男は去り行く街に未練は残さな……」  去り行く街を、窓越しに見下ろしたそのとき。 「……い?」  俺はポカーン、と、目を見開いていた。  そしてガラスの向こう、去り行く街のロータリーに、同じくマヌケ顔をした奴が突っ立っていた。  おまえ、一体、そこで、なにを……? 「たっ、田村くん……わ、うわあ……」  うわあじゃない。そんな場合か。俺も冷静に突っ込んでる場合か。  信じられなかった。  でも、信じるしかなかった。  だってそこにいるのだ。  端的に言うなら、俺《おれ》がバスに乗って今まさに離《はな》れようとしているその場所に、松澤《まつざわ》が立っているのだ。三角巾《さんかくきん》と、スポーツバッグで。骨折娘が立っているのだ。 「は、は、は……はぁぁぁ———っ!?」  思わず叫んでしまった瞬間《しゅんかん》、無情にもバスはロータリーから滑り出ていた。口を開けたまま取り残されて、松澤はどんどん遠ざかっていく。立ち上がろうとしてバランスを崩し、天井《てんじょう》に頭をぶつけた。それどころではなくて窓を限界まで開き、上体をがばっと外に出し、 「おまえっ、帰ったんじゃないのかよぉぉ!?」  泣き声に近い声で叫んでいた。そんなことをしている間にどんどんバスはスピードを上げ、あらよっと言う間に通りへと侵入し、松澤は、 「松澤——」  スポーツバッグと腕を吊《つ》った三角巾を、おもいっきり、投げ捨てた。  信じられない思いで、投げ捨てられたスポーツバッグが側溝に転げ落ちるのを見た。  声も出せずに窓から身を乗り出し、俺はその光景を、見た。  松澤は身体《からだ》を引いた。そして体勢を低くし、目線《めせん》だけを前へ——俺の乗ってるバスへ向けた。その、一瞬。  捕らえられた、と思った。  音が死んだ。  風が死んだ。  夕暮れの喧騒《けんそう》のすべてが死んで、松澤はそのすべてを貫く、ただひとつの弾丸になったのだ。  それはまさしく、奇跡のような光景だった。走り出したバスを追って地面を蹴《け》った松澤は、歩道を行く人の波を軽やかにすり抜け、空気も風も味方につけ、立ちはだかるすべてのものを無音で切り裂き、制圧し、誰《だれ》よりもなによりも速かったのだ。 「ま……松澤ぁっ! 誰かこのバス、止めてくれ———っ!」  乗客の誰かが呟《つぶや》いた。それは無理だって、これはバスなんだから、と。そんな無体《むたい》な、と思う間にも、松澤は振り切られずにバスを追走し続ける。  獲物《えもの》を定めた、野生の獣《けもの》のようだった。光の尾を引く、彗星《すいせい》のようだった。しなやかで、迷いなく、超新星のきらめきで輝《かがや》きながら、松澤はこの地上を駆け抜ける。なにもかもを振り切って、どんなものにもとらわれずに、松澤は自由に突っ走る。  強烈なショックを受けていた。  こんな女だったんだ。  俺《おれ》が恋した松澤《まつざわ》は、こんなに綺麗《きれい》な奴《やつ》だったんだ。  教室で盗み見た松澤。  声をかけるたび、怯《おび》えるようにうめいた松澤。  グランドに現れた松澤、俺を置いて走っていく松澤、交わしたいくつものくだらない質問、花火に光った鼻の輪郭《りんかく》——俺の中の松澤が、松澤と過ごした思い出が、記憶《きおく》のすべてが、そのとき音を立てて木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に吹き飛んだ。粉々になって砕け散って、宝物だったそれらすべてが、ただのスクラップになっていく。  そしてそこから鮮《あざ》やかに生まれてくるのは、これまでよりももっともっと強烈な、もっともっと眩《まぶ》い、もっともっともっと熱《あつ》い、松澤への——いや、なんと呼んでももう構わない、松澤は最高だ。本当に本当に最高だ! 「田村《たむら》く———んっ! た、田村、く————んっ!」  顔を歪《ゆが》め、叫ぶ声。  一ミリでも遠くまでと願《ねが》うみたいに、まっすぐに伸ばされた指先。しかしバランスを崩しかける、俺の脳裏にあのトラックに倒れた松澤が蘇《よみがえ》る、そういやこいつ、骨折してるくせになにやってんだっ!? 「松澤ぁぁぁっ! おまえ、なに全力疾走してるんだーっ!」  ええいままよ、俺も必死に身体《からだ》を窓から乗り出した。落ちたっていい、もういい、どうだっていい、松澤に向かって肩が外れるほどに腕を伸ばす。 「やめておけ、ああっ! また転ぶっ! 危ないっ! そこっ! だぁぁっっったくもぉぉ——っ! もう、いいっ! おまえが、一等賞《いっとうしょう》だ———っっ!」  片腕を振れずに安定しないまま走る松澤に、渾身《こんしん》の力で叫んだ。 「誰《だれ》がなんと言ったって、俺には、おまえが、松澤|小巻《こまき》が、宇宙で一番の、一等賞だあああああ————っっ!」 「たっ、田村くん!」  ズルズルと次第に遅れていきながら、 「わたし、わたし……っ!」  バスの後方で、松澤は泣いた。顔をぐしゃぐしゃに歪《ゆが》め、俺の名を呼びながら泣いた。そして、 「田村くんが、好き————っ!」  もうだめだ。  ズドン、と撃《う》ち込まれた銃弾が、俺の胸で燃《も》え尽きて、二度とふさがらない穴を開けた。 「田村くん、ほんとは大好きなのぉっ! こわくて、こわくて言えなかったのぉぉっ! 会えなくなる前に言わなきゃって田村くんが教えてくれた、だから言う、ずっとずっと、大好き——っっっ! これからも、今までも、ずっとずっと、大好きぃぃ——っっっ!」  もういい。決めた。飛び降りよう。そして松澤《まつざわ》の近くに行かなくては。そう思った。その襟首《えりくび》を誰《だれ》かに掴《つか》まれ、思いっきりシートへ引き倒された。 「うぐぇっ!」  そこには乗客のサラリーマンが渋面《じゅうめん》を作っていて、 「あぶねえだろうが! 止めるって言ってるから、さっさと降りろ青春坊主!」 「え……あっ! す、すいません! すいません! ありがとう!」  なぜだかそのサラリーマンが拍手をしてくれる。前の席のおばさんや、若い女の人も、つられて拍手をしてくれる。そして横断歩道の手前で停車してくれた運転手は、いやらしく親指を立てて見せた。 「みなさん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたァーッ! 不肖《ふしょう》わたくし田村《たむら》雪貞《ゆきさだ》、このご恩は、一生、」 「いいから早く行け!」  どやされて、タラップを駆け下りた。  プシュッ、と音を立ててドアが開き、そして。 「……松澤……っ!」 「田村く——んっ!」  走ってくる松澤に向かい、俺《おれ》も走り出す。  あと十メートル、あと五メートル、松澤との距離《きょり》を縮《ちぢ》めながら、そうだった、と思い出していた。  二人でマラソンしているとき、松澤はいつも先に走っていってしまって、奴《やつ》の背中ばかりを見ていたのだ。だけど、それが楽しかった。楕円《だえん》のコースをズンズン遠ざかっていく背中は、同時に、背後から松澤が接近してきているということでもあったから。ペースが違うからずっと一緒《いっしょ》にはいられないけれど、同じ軌道上を同じ向きで走っている限り、俺と松澤は何度でも出会うことができる。どんなに遠く離《はな》れても、いつか絶対に出会える。  そして、それが今、このときなんだ。 「松澤ぁぁぁ———っ!」  松澤の名を呼んだ。松澤はもう声も出せないようだった。  両手を大きく広げ、俺へ向かって倒れこむように、松澤が全身を預けてくるのがわかった。俺は迷いもせず、その肩をガッシ、と掴《つか》み、 「この、どグズ助ぇぇ——っ!」 「ひっ!?」  その身体《からだ》をガクガクと揺さぶってやった。 「おまえなあ、お守りなんかにあんなもん仕込みやがって、俺が気がつかなかったらどうするつもりだったんだよ!? 第一なにやってんだ!? 帰ったんじゃないのか!? しっかもこんな危ない真似《まね》しやがって、また転んだりしたらどうするつもりだったんだよっ! だいたいおまえは無茶《むちゃ》ばっかしやがって、心配してるこっちの身になったことはあるのかっ!? えぇ!? えぇぇ!? ああぁん!?」 「た、たむ、たむ、たむ、うで、いた、ほね、」 「あああそうだったっ!」  しまった、と一瞬《いっしゅん》身体《からだ》を離《はな》し、 「こンの……ばかたれっ!」  ——照れ隠しも、これが限界だった。  俺《おれ》は泣けて泣けて仕方がなくて、怒鳴《どな》り声も偽装できなくなって、負けだ、と松澤《まつざわ》を抱きしめた。松澤の身体はこわいぐらいに細くって、赤ん坊みたいに熱《あつ》かった。 「……田村《たむら》くん……っ!」  両手に捕まえた松澤の肩に頭を預け、俺は声を上げて泣いた。  何度もごめん、と繰《く》り返した。  俺だってずっと好きだった、と繰り返した。  弱くてごめん、ばかでごめん、何度も何度もそう繰り返した。  やがて声がガラガラに嗄《か》れた頃《ころ》。 「……私こそ、グズ助で、ごめん……っ」  松澤の手が、そっと俺の頭を撫《な》でてくれた。汗に濡《ぬ》れて汚いはずの額《ひたい》に、柔らかな唇を押し当ててくれた。  俺はそれだけで、世界のすべてが俺の愚かさを許してくれた気がしていた。  万事|快調《かいちょう》。オールオッケー。  この世のすべては、つっぱしるガキどもの側にあるのだ。多分《たぶん》。  そして松澤の小さな囁《ささや》きは、一生忘れられない熱さで、この耳にしっかりと吹き込まれた。 「……一等賞《いっとうしょう》、くれて……ありがとう……!」  ——これが後に、「田村家の次男が高速バスをジャックしたうえ、道路で人質の女の子にセクハラしていた」と近所中で語《かた》り継《つ》がれることになる伝説の一部始終である。      ***  あの夜、学校のグランドで帰ると宣言した松澤は、しかし別れ際の俺の声を聞いて、やっぱり帰れない、と思ったのだそうだ。それでビジネスホテルで一夜を明かした後、朝のバスをキャンセルし、俺《おれ》の学校が終わる頃《ころ》まで待って自宅を訪ねた。だが、驚《おどろ》き顔で現れたうちの母親に、「ウチのバカ息子は、松澤《まつざわ》さんに会うんだって今さっき出かけていったわよ!? ちょっと大丈夫なの!? 追いかけるなら超いそいだほうがいいと思う!」と言われ、「うわあ」となったのだそうだ。  そしてバス停で、ちんまりと座席に納まった俺を見つけ、さらに「うわあ」となったのだそうだ。 「……なんというか……おまえらしいよ」 「そ、そうかな」 「いや、褒《ほ》めてないぞ」 「そっか」  終始|俯《うつむ》いたままの松澤の手を引いて、俺は自宅へと向かっていた。  ……今さらりと述べたけれど、はい、ここテストに出ます。俺と松澤は、手をつないでいます。  俺のさして大きくない手の中に、松澤の拳《こぶし》はすっぽりと納まってしまうのだ。それがなんだか嬉《うれ》しくて、 「へっへっへ……」  下卑《げび》た笑いを止められない。そっとこちらを窺《うかが》い見る松澤が微妙な顔をしているのにも気が ついているけれど、止まらないモンは止まらないのだ。仕方あるまい。  夕暮れ時をとうに過ぎて、薄藍《うすあい》の夜が天に滲《にじ》み始めていた。こんな静かな黄昏時《たそがれどき》を、松澤《まつざわ》と手をつないで歩き、時折ぽつぽつと会話を交わした。  笑いが止まらなくて、腹がくすぐったくて、だけどちょっとつつかれれば、今すぐにでも爆泣《ばくな》きできる。そんな不思議《ふしぎ》なテンションのまま、俺《おれ》はとにかく、幸せだった。  松澤も同じ幸せを、感じてくれていたらもっといい。 「ヘイヨー、まっちゃん」  照れ隠しに妙な呼び方をし、 「え?」  さりげなく左右|確認《かくにん》、人目はなし。物陰に立ち止まり、ン……と唇を突き出してみた。  なにをやってるのかなんて、そんな無粋なことを聞く奴《やつ》は斬《き》りますよ。 「なに? 田村《たむら》くん。なにやってるの?」  あ、あれ……? 「……も、もういい。なんでもない」  ——通じなかった。 「もういいってなにが? ねえ、なに?」  ニヤニヤ笑いで松澤の追撃《ついげき》をかわしつつ、実は結構本気でがっかりきていた。またしばらく  会えなくなるのだから、接吻《せっぷん》ぐらいはよかろうに、と思ったのだが。  ——まあ、いいか。  息をつき、傍《かたわ》らの松澤を見下ろした。こんなときでさえ、俺と松澤はやっぱりペースが違うのだ。だけどそれでもいいと思う。いつかは絶対、ばっちりと、見事なタイミングでもって衝突《しょうとつ》するときが来るのだから。そのときを楽しみに待たせてもらおう。  やがて家の前についた。  松澤の帰りのバスの問題はこれから解決しなければならなかったが、なんにしても休息は必要だろうから、自宅にあがってもらうことにしたのだ。本当ならそのまま週末泊まっていって欲しいところだが、贅沢《ぜいたく》は言うまい。 「田村くんの家、上がるの初めてだ」 「……松澤、おまえどうしたんだ?」 「え?」 「なに普通っぽいこと言ってるんだよ。もっと奇天烈《きてれつ》なことを言ってみろ。あたしの月の家にも招待してあげるとかよお。フハハ!」 「……」  などと一方的な軽口を叩《たた》きながら階段を上がり、 「ただいまー」  と超ご機嫌《きげん》で玄関のドアを開けた。  その瞬間《しゅんかん》だった。 「小巻《こまき》———っ!」 「は!?」  なにやらものすごく巨大な影《かげ》が俺《おれ》の視界を塞《ふさ》いだと思ったのだ。その影は俺をグイ、と押しのけ、 「お、お父さん……っ」 「心配したじゃないかっ! お父さん、もう泣けて泣けて……っ!」  唖然《あぜん》とする俺の目の前で、そいつは、俺の、愛《いと》しい松澤《まつざわ》を、ほ、抱擁《ほうよう》したのだ。 「あ、あのぉ……あのぉ……?」 「お、おと、おと、うで、あの、ほね、いた、」 「おおお、すまなかったねドーター! ……ああ、なんてかわいそうなんだー!」 「うっぷ」  たくましい腕の中でうっぷうっぷと溺《おぼ》れかけている松澤を眺めながら、俺は事態を正しく把握しようと必死に冷静を保っていた。  ええと……これは……いわゆる……痴漢……か? 「雪貞《ゆきさだ》、こちら松澤さんの亡くなったお父様の、弟さんご夫婦ですって。今同居なさってて、養子手続きも済まされたそうよ」 「は……はい?」  気がつけば、巨大な影の背後には、うちの母親が玄関先だというのに、座布団を敷《し》いてくつろいでいた。なにをしてるんだと思う間もなく、 「初めまして、わたくしども小巻の保護者《ほごしゃ》です。本当に今回はご迷惑をおかけしまして……申し訳ありませんでした」  その隣《となり》の座布団には上品なおばさんが正座していて、俺に深々と頭を下げている。  ということは、この大男は—— 「お父さん、離《はな》して……苦しい……」 「おおおっ、すまん!」  松澤の、要は、オトウサマ……?  このプロレスラーがスーツの中に猛《た》ける肉体を押し込んでみましたがなにか? 的な男性が……? 「やあ、君が……田村《たむら》くん、だね? 小巻から話は聞いていましたよ。い、ろ、い、ろ、と、ね」 「は、あ、あの、あの……」 「小巻から昨晩連絡をもらいましてね、飛行機《ひこうき》に乗って来たんですよ。こちらの住所は小巻に時々来る手紙でわかっていましたから。……あ、中身は見ていないよ?」  ノアーッハッハッハ、と笑うこのお方に、俺《おれ》はどう反応すればいいのだ? まったく正解が見えてこず、ただアウアウとデクの坊化してしまう。 「あ、そうそう、田村《たむら》くんにご迷惑をかけたみたいだから、お詫《わ》びの品。なんでもこういうのが好きとか」 「そ、それはそれはご丁寧《ていねい》にどうも……っく!」  手渡されたものを見て、俺ははっきりと悟った。俺はよく思われていない。  だって、だって……鎌倉《かまくら》のガイドブックだぞ!? なにが江《え》ノ島《しま》まで足を延ばしてのんびり散歩だ、俺が好きなのは、鎌倉、じ・だ・いっ! 「気に入ってくれたかな?」 「ぬ、ぬぅ……っ」  負けるものか、と大男を見上げた。この俺には逆転の一手があるのだ。一度呼吸を整《ととの》え、母親がここに同席しているという事実はこの際心の中のフォトショップで消し去って、 「お父さん! お話があります!」  声を上げた。  ピクリ、と濃《こ》い眉《まゆ》が動くのが見えた。 「……なにかな?」  言ってやる、言ってやるぞ…… 「おおおお、お嬢《じょう》さんと、おおおお、お付き合いさせてくださいっ! なぜなら俺たちは、両! 想《おも》! い! なんですっ!」  い、言ってやった……! これで公的に俺と松澤《まつざわ》は恋人同士! 反対するならしてみろというのだ、俺たちは天下御免《てんかごめん》の両想いだぞ!  だが。 「……だめ」 「は?」 「それはねえ、だめだよ田村くん。君と小巻《こまき》はまだ高校生だろう? 今は気軽に付き合うの何のって言うけれどね、実際に君たちが付き合い始めたら、その通信費やら交通費やらはどうするんだ? うちの小巻の学校はバイトは禁止だし、君が働いて二人分出す、なんてしていたら、早晩勉強に支障が出る。それとも、親御さんに出してもらうかい?」 「ぐ、ぐ……っ」  親御さん、とやらに聞く必要さえなかった。母親はお茶をすすりつつ、ぶっちゃけありえなーい、と首を横に振っている。おまえ、どっちの味方だよ!? 「じゃあ、お世話になりました。さあ帰ろう小巻。すぐ帰ろう」 「あ、あ、田村くん、あの、あの」 「本当に申し訳ありませんでした。田村《たむら》くん、よかったらまたお手紙出してあげてちょうだいね。ごめんなさいねえ、うちの人頑固だから」 「ちょ、ちょっと待ってくだ……ぐえっ」  押しのけられ、松澤《まつざわ》に別れの挨拶《あいさつ》もできなかった。不幸なことにそのままよたよたと足がもつれてバランスを失い、上がり框《かまち》の方へよろめき、尻餅《しりもち》をついてしまう。 「あら、あんたマザコンねー」  本当の本当に不幸なことに、尻の下には母親の膝《ひざ》が待ち構えていた。がしっ、と両腕が俺《おれ》のウエストに巻きついてくる。 「いいわよ、こんな日はお母さんのお膝にいらっしゃい……お兄ちゃんと孝之《たかゆき》には秘密にしておいてあげるから……」 「いらんわ———っ! あああ、行ってしまうじゃないかっ!」  母親固めを振りほどき、閉じられたドアに飛びついた。外に出て行ってしまった松澤一家を追おうとするが、無情なタクシーがちょうどうちの前から走り去るところだった。  車窓に見えたのは、松澤父。見えたぞ、暗がりの中でニコニコ笑って、松澤をガードして俺の視線《しせん》から隠し、あいつは手を振っていた! 「ば、ばかな……っ! これが結末なのか!? こんなのってアリなのかっ!?」  ——半ば放心状態で、タクシーを見送るその頭上には。  きらきら光る、大きな月。  帰っていった松澤のことも、ここに暮らし続ける俺のことも、変わらぬ明るさで照らし続ける大きな月が浮かんでいた。      *** 「……お父、さん……」 「ん? 今のは……寝言かな? 今の『お父さん』って、俺のこと?」 「違うでしょ、きっと義兄《にい》さんのことよ。はい、すねないで。……もうそろそろ搭乗時間だわ。小巻《こまき》を起こさないと。……疲れたのね、すっかり寝ちゃってる」  今日《きょう》の勝者は、いまだ幸せな夢の中にいた。  空港の待合ロビー、窓から差す月の光に守られ、今後にしてきたばかりの街で燃《も》える不穏《ふおん》な炎に気がついてはいなかったのだ。  その、燃える炎は—— 「あ、これだ……今、見つけた!」 「よかったよかった。で、感想は?」 「これが松澤《まつざわ》さんか……ふーん。うん……あたしの方が、絶対美人! ……次は負けないんだから。譲《ゆず》ってやるのは一回だけ。次は容赦したりしない!」  借り物の卒業アルバムを床に広げ、右耳には携帯電話。  相馬《そうま》広香《ひろか》は決意を新たに、グッ、と強く唇を噛《か》む。その電話の向こうに響《ひび》くは、 「いやー、熱《あつ》くなってきたなあ。わざわざ相馬さんちのポストまでアルバムを届けてあげた甲斐《かい》があったよー。お役に立てて嬉《うれ》しいっす」  裏切り者の、軽薄《けいはく》な笑い声。 「ありがとう高浦《たかうら》くん、でも……高浦くんは、松澤さんの味方なんだよね? なんであたしに協力してくれるの?」 「そりゃーあれだよ。なんていうか……相馬さんと田村《たむら》のカップルも、想像してみたらかなりおもしろいことになりそうだったんだよねえ。なーんか、応援したくなってきちゃったなあ。それに、ほら」  常軌を逸したヤジウマ男の悪魔《あくま》の囁《ささや》きが炎にガソリンをぶっかける。 「高校一年の時に付き合い出したカップルの、何割が卒業まで保《も》つと思う? しかも遠距離《えんきょり》だろー。……これは相当、有利ですぜ?」 「……そうよね……そう、そうよね! なにしろあたしと田村は学校も一緒《いっしょ》、クラスも一緒、出席番号も席も近くて、」 「そうそう。昼休みも一緒。宿題も一緒。体育祭も一緒。文化祭も一緒」 「修学旅行も、合唱コンクールも、始業式も終業式も夏休みも春休みも冬休みも大学|受験《じゅけん》も卒業式も……同窓会も、ぜーんぶ一緒!」 「そうっす!」 「この勝負……」  ニヤリ、と不敵な笑《え》みは街一番の美少女の頬《ほお》に。 「勝てる!」      *** 「じゃあさーじゃあさー、三等になったらー!?」 「だから、さっきから言ってるだろ? 一等賞《いっとうしょう》を取りなさいって。そうしたら、おまえのお願《ねが》いをなんでも叶《かな》えてやるから。ゆうえんちでも、アイス五段がさねでも、まんが喫茶三時間でも、なーんでも」 「でもさー、さおりちゃんもえみちゃんもチョー足速いんだよ!? こまきだって速いけど、もしかしたら負けちゃうかもしれないじゃーん!」 「だーいじょうぶだ! 小巻《こまき》が本当に一等賞《いっとうしょう》になりたくて、本当の本気で走れたなら、絶対|誰《だれ》も追いつけない! お父さんが保証する!」 「絶対? ぜったいぜったいぜーったい?」 「うっぷ、ぐえ、ぐえ……ビール出ちゃいそう」 「ほーら小巻、もういい加減お父さんのおなかから下りてあげて。お父さんオデブだからかわいそうよ?」 「……ふふふ! お父さん、オデブだって! ねーねーお兄ちゃん、お父さんってオデブ?」 「うーるさいなーおまえは。ゲームやってる時は話しかけるなよ」 「ふふふ! ふふふふっ! ……それじゃあさあ、明日《あした》の運動会でえ、一等賞になったらあ……ねえ、お父さん。こまき、一等賞になったらさー……」  ——一等賞になったら、そのときは、本当に欲しいものを、欲しいって言うよ。  だから私に、一等賞を取らせてね—— [#改ページ] 「あれは……」  草木も眠る丑三《うしみ》つ時《どき》である。  間接照明だけを灯《とも》した、高校一年生にはスタイリッシュすぎる広々とした私室。主《あるじ》である高浦《たかうら》真一《しんいち》は、窓から偶然見えた人影《ひとかげ》に思わず小さな目を見開いた。もっとよく確《たし》かめようと手にしていた漫画雑誌を放り出し、イタリア製の一人がけソファから窓辺へと身を滑らせる。  広大な邸《やしき》の前庭。綺麗《きれい》に刈られた木々の間を縫《ぬ》い、周囲を警戒《けいかい》しながら御用聞き用の小さな木戸を開こうとしている小柄な人物は——異形《いぎょう》であった。  絹糸の如《ごと》き黒髪を腰の辺りまで垂らし、その全身を包むのは地面を引きずりそうな漆黒《しっこく》のケープ。お供には小さな豆柴《まめしば》が一匹。手にはオレンジの炎を灯した太い蝋燭《ろうそく》をむんずと掴《つか》み、暗闇《くらやみ》を照らしながら木戸の取っ手を探しているらしい。  この二十一世紀の現代日本、真夜中とはいえ奇天烈《きてれつ》きわまる魔女《まじょ》ルックで外出できるような奴《やつ》に、心当たりは一人しかいない。 「……伊欧《いお》……」  高浦家の居候にして愛人の娘、玉井《たまい》伊欧である。彼女は花の十五歳、私立の女子中の三年生。ただしまともに登校している形跡はない。こんな時間にあのなりで外出するあたり、痛々しいほどの潔癖症《けっぺきしょう》をこじらせた挙句の自己流オカルトライフ——簡単《かんたん》に言えば、奇行癖《きこうへき》——は、いまだになりをひそめてはいないらしい。 「……こんな時間に外出なんて危ないじゃないか。伊欧のやつ、なにを考えてるんだよ。……やっぱり俺《おれ》が面倒《めんどう》みてやらないとなあ……まったく世話がやける……」  妹の奇行にため息をつきつつ、高浦は「ヤレヤレ」と後を追うべくスウェットの上着をかぶった。しかし——その地味顔には言葉と裏腹、超ド級の歓喜の表情。  なにを隠そうこの男、街で一番のヤジウマ男なのである。もっと言うなら、ピービング・トム……妹と同じかそれ以上のレベルで、十分危ない少年であった。その好奇心に一度火がついてしまったなら、相手が妹だろうがなんだろうが、高浦を止めることは誰《だれ》にもできない。      ***  高浦真一と玉井伊欧の関係は、一言で「腹違いの兄妹」と言ってしまうには少々複雑である。  資産家である高浦家の御曹司《おんぞうし》・真一の両親は、それぞれに愛人を複数もっていた。そして数年前、母親が愛人の一人と出奔《しゅっぽん》してしまったのを好機《こうき》とばかり、父との間にできた娘を連れて乗り込んできたのが、父の愛人の一番の古株・玉井|麗子《れいこ》であった。  いまだ離婚《りこん》が成立していないため籍《せき》こそ入っていないが、麗子はとっくに奥様気取りで、高浦家の一切を取り仕切っている。そして連れて来られた娘の伊欧は、思春期を複雑にこじらせた。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な母親と、面倒を嫌《いや》って帰宅しない父親。そんな両親のDNAがその身を作ったこと自体、潔癖《けっぺき》な少女には許せなかったのだろう。  こじれにこじれてその結果、伊欧《いお》はいわゆる引きこもりになった。高浦家《たかうらけ》の邸《やしき》に足を踏み入れることさえ嫌って離《はな》れを手ずから改装し、鉄条網と南京錠《なんきんじょう》で歪《いびつ》な城を裏庭に築き上げたのだ。  完全に他人をシャットアウトし、逃げ込んだのは知の世界。欲と俗を遠ざけるあまり、踏み込んだのは哲学と神秘——未熟《みじゅく》な衒学趣味《げんがくしゅみ》が高じて、伊欧はすっかりその筋に「かぶれた」。そうして分厚い古書とともに暗黒の日々を過ごすこと丸四年。彼女も今では立派に危ない、一人前のオカルト秘術マニア(ただしあくまで自己流)である。卑俗な人間社会と決別するべく、孤高の一生を送る覚悟はとっくに完了していたらしい。  とはいえ、高浦と伊欧の関係はそう悪いものではなかった。複雑な家庭|環境《かんきょう》に生きる同志、もしくは唯一の理解者として、お互いを尊重してさえいた。  ただしそれも、過去の話だ。その良好な関係は、去年の夏にもろくも崩れ去っていた。潔癖症の伊欧の将来を案じた高浦が、伊欧を「普通の女の子」に戻そうと決意した結果である。高浦は「ふ・け・つ・よぉぉぉ—————!」と罵倒《ばとう》され、それっきり、まともな会話さえ交わしてもらえなくなっていた。  それはさておき、丑三《うしみ》つ時《どき》である。  近所の公園の木立《こだち》の中に侵入した伊欧は、なにやらゴソゴソとケープの懐《ふところ》をまさぐっている。その傍《かたわ》ら、お供の豆柴《まめしば》・高浦ポテトは、 「ヘッヘッヘッヘ……」  なにも考えてなさそうなツラで、伊欧と、少し離《はな》れた茂みに身を隠した高浦とを交互に眺めていた。そして高浦は、しー、だぞ、吠《ほ》えるなよ、と犬には高度過ぎるジェスチャーを返しつつ、高まる好奇心に息さえ荒げ、伊欧の行動を見守っていた。ちなみにそのジェスチャーにコクコクと頷《うなず》いて見せたのは、ポテトではなくその向こう、伊欧を挟んで反対側の茂みに『住んで』いらっしゃる年配の方だった。彼も同じく固唾《かたず》を呑《の》んで、奇妙な子供たちの様子《ようす》を見守っていた。  これが普通の妹ならば、まず心配すべきは男との逢引《あいびき》だろうが、超のつく潔癖症で人間嫌いの伊欧に限ってそれはありえない。というかそもそも、ここは確《たし》かに人気《ひとけ》はないが、公衆便所の裏手である。若干鼻にツン、とくる刺激臭《しげきしゅう》の中で、逢引したがる中学生もなかなかいるものではないだろう。  注がれる三対(高浦・ポテト・住人)の視線《しせん》の中、伊欧がまず懐から取り出したのは、 「……ハチマキ……?」  などというざっくばらんな名称で正しいのかどうか、白い帯状の布だった。伊欧はもぞもぞと不器用な手つきでそれを額《ひたい》に巻き、頭の後ろで蝶結《ちょうむす》びにする。  そして次に取り出したのは、細い二本の和蝋燭《わろうそく》。伊欧はライターで火を灯《とも》すと、額に蝋が垂れるのも恐れず、結んだハチマキの間に左右に一本ずつ差し込む。その姿はさながら、火のついた角《つの》を生《は》やした子鬼だ。 「……こ、こわ……」  向かいの住人も、すっかり怯《おび》えきった目をして豆柴《まめしば》を連れた鬼を見ている。  一体なにをしようというのか、生ぬるい春の空気が静まり返ったのは一瞬《いっしゅん》。 「……さよなら……人間ども……」  伊欧《いお》の不吉すぎる囁《ささや》きが、高浦《たかうら》の背筋をゾゾゾ、と駆け上がった。その伊欧の右手には、いつの間にやら木製の小槌《こづち》。左手には、……藁人形《わらにんぎょう》。  恐怖を感じる暇もあらばこそ、決然と顔を上げた伊欧の小さな白い手が、哀れな藁人形を杉の大木に押さえつけた。よくよく見れば、その心臓部《しんぞうぶ》に突き立てられているのはご存知、五寸釘《ごすんくぎ》。そして小槌を高々と振り上げ、 「きえええええ———いっ!」  気合の声が、深夜の住宅街の静寂を破る。  カーン! 「ひとーつ! 打っては母を恨みィ!」  カーン! 「ふたーつ! 打っては兄を恨みィ!」  カーン! 「みーっつ! 打っては……」 「……ひぃえぇぇえ……っ」  父、担任、去年の担任、と恨みの範囲《はんい》が広がりつつある中、あまりの光景に高浦はへっぴり腰で逃げ出した。怖い、怖すぎる。どこの世界に夜中に家を抜け出し、自己流|丑《うし》の刻参《こくまい》りで兄を呪《のろ》う妹がいるというんだ。 「伊、伊欧……! おまえ、悪化しているじゃないか……!」  猛然と夜道をダッシュして邸《やしき》へ逃げ帰りつつ、高浦は一人低く唸《うな》った。伊欧の病気は悪化している。自分の殼に閉じこもるだけでは飽き足らず、ついに身の回りの人間に呪詛《じゅそ》の言葉を吐き始めるとは。 「このままでは一生まともな幸せは掴《つか》めないぞ……ああっ、こんな無力な兄にできることといえば……!」  自宅にたどり着き、開きっぱなしにしてきた門の脇《わき》の木戸をくぐり、しかし高浦は玄関には向かわずに邸の脇から裏庭を目指す。そして、 「おまえの『ため』に、おまえを病から救う方法を、」  迷わず茂みから隠しておいた脚立《きゃたつ》を引っ張り出し、離《はな》れを囲む鉄条網を軽々と乗り越え、 「探し出してやることだけだあ!」  とっくの昔に作ってあった合鍵《あいかぎ》を、躊躇《ちゅうちょ》なくドアノブに差し込んだ、開いたドアから暗黒の室内に踏み込み——にやあ、と浮かぶのは、満足げな笑《え》み。 「……これは断じて留守を狙《ねら》った家捜しなどではありませんよ。伊欧《いお》のために、お兄ちゃんは、病を癒《いや》す手がかりを求めているのです」  勝手知ったる慣《な》れた手つきで、頭蓋骨《ずがいこつ》型ランプの電源を入れた。薄紫《うすむらさき》の気味悪い明かりが、黒に塗り込められた屋内を照らし出す。  ——兄はいつでも、妹のために、留守を狙って家捜しできるよう手はずを整《ととの》えてあるのだ。  窓を潰《つぶ》した完全な暗黒の密室には、今夜も濃厚《のうこう》な秘薬の匂《にお》いが立ち込めていた。  天井《てんじょう》から幾重にも吊《つ》られた黒の薄布を払い、ぶら下がる銀の香炉《こうろ》をよけつつ奥へと進む。一体こんな時間までなにをしていたのやら、香炉からは今も白煙が薄く立ち昇り、踏みつけるたびにきしむ板の床には、点々と真《ま》っ赤《か》な蝋《ろう》が血の染みのように垂れていた。  そして、手足の数が少々間違えてしまっている雰囲気のカエルの剥製《はくせい》が並ぶキャビネットの裏が、伊欧の居室である。  分厚い哲学書や神秘学の本がぎっしり並ぶ書棚の脇《わき》には、 「……今日《きょう》はまた、随分だらしないなあ」  敷《し》きっぱなしのマットレスとタオルケット、そして脱いだままと思《おぼ》しきモーモーさん柄のパジャマが。伊欧は小学校四年の頃《ころ》から、このパジャマじゃないとよく眠れないのだ(高浦《たかうら》調《しら》べ)。まあ、なんだ、手にとって匂いをかぐなんてことはさすがにしないが、 「……なるほど……」  触って体温の名残《なごり》を確《たし》かめるぐらいのことは、する。  と、目に付いたのは、マットレスの枕元《まくらもと》に乱雑に積《つ》み上げられた数冊のペーパーバックの本だった。どれもカバーが裏返しにかけられており、相当読み込んだらしく、背の部分が折れてしまっている。思わず中を確かめてしまうが、 「……」  腰まである金髪の美男子がなぜか学ラン姿で、同じく学ラン姿の八重歯《やえば》の美少年をニヤケヅラで横抱きにしている挿絵《さしえ》を確認《かくにん》。その時点で、静かにその小説本を閉じた。趣味《しゅみ》は自由であるべきだ。  もっとおもしろいものはないかと立ち上がり、小さなスツールに置かれたノートパソコンに気が付いた。スタンバイ状態のまま、開きっぱなしになっている。  興味《きょうみ》を引かれ、漆黒《しっこく》のマウスを動かしてみた。すると、 「うっ……」  一体どういうセンスなのか、それとも盗み見するピーピング野郎の目を潰してやろうという魂胆なのか。モニターの全面を覆《おお》いつくすのは無数の細かな渦巻き模様……よくよく見れば、異様に密集したアンモナイト画像。一瞬《いっしゅん》卒倒しかけるが。 「……こんなことではめげませんよ、と……」  覗《のぞ》き根性で小さな目を見開き、開いたままの小さなウインドウを覗き込む。 「ん? ……FTPソフト、か?」  ファイルのアップロードを完了しました——メッセージの上に、左右に分かれた長方形の窓。左側にはCドライブのhtmlファイル、そして右側にはhttp://www—— 「こ、これは……!」 〈ようこそ偽愛《ぎあい》パラノイアへ・・・大人《おとな》向けデス・・・管理人☆涙夜〉 「涙夜———っ!」  歓喜極まり、高浦《たかうら》は椅子《いす》から転げ落ちた。夜明け間近の高浦家、御曹司《おんぞうし》の私室である。  これが喜ばずにはいられようか、高浦は今日《きょう》ついに、伊欧《いお》の個人ホームページを発見したのだ。前々からそんなことをしていそうだとは思っていたが、ようやく尻尾《しっぽ》を捕まえた。  必死にデスクへ這《は》い戻りつつ、インデックスページを開くと同時に激《はげ》しく鳴り始めたしょぼいオルゴールMIDIをしみじみと味わう。  黒背景のページには、小さすぎるフォントの文字。しつこく散りばめられた、羽根や十字架の素材。血色《ちいろ》のフレームの中にはこれだ。  セカイノハテ(サイトの説明らしい)  ココニイルイミ(プロフィールらしい)  ブチマケラレタココロ(メインコンテンツらしい)  キミノメモミミモ(掲示板らしい)  ハルカナルタビヂ(リンクらしい) 「……タビヂかあ……。いいセンスしてるよなあ……でもとりあえず……」  はあ、はあ、と荒ぶる息を吐き、舌で乾いた唇を湿らせ、高浦はそっとカーソルをブチマケラレタココロに合せる。やはりまずはこれだろう……落ち着け……あせるな……楽しみ尽くすんだ……この興奮《こうふん》を……クリック! 「……おお、お、お……っ! ……おぉ?」  注! 大人向けデス! 転載|厳禁《げんきん》! ——そんな注意書きと、騙《だま》し絵のようなサムネイル。風景画だろうか、それとも抽象画? 首をひねりつつ、何枚かのサムネイルのうちの「最新」と添えられた一枚をクリックしてみる。大きく切られたフレーム一杯に、画像が拡大表示される。  高浦の眉《まゆ》が、険しく寄った。  背景色は、白だ。線《せん》の色は、黒だ。これは……人、か。異様に尖《とが》った顎《あご》をもつ鹿《しか》のような頭部と……画面一杯に、炸裂《さくれつ》する花火の如《ごと》く四方八方に広がる金色《きんいろ》の線。……髪の毛のつもり、なのだろうか。そして大きい、四角い、尖《とが》りすぎ、などの言葉ではもう表現しようのない肩幅と、小さい、短い、まっすぐ、などの言葉ではもう(略)腕。かろうじてその手にはナイフをもたせたかったのだろうと理解できるが……□元から伸びる棒は本当になんなんだ? 釘《くぎ》か? かいわれか? 「もしかして……たば、こ……か?」  モニターをしばし見つめ、うーむ、と高浦《たかうら》は唸《うな》った。伊欧《いお》、いや、涙夜の描いた大人《おとな》向けイラストとのことだが、これは——ひょっとして、ひょっとすると、さっきの小説本でニヤけていた金髪男のつもり、なのだろうか。ちなみに画像のタイトルは『灼熱《しゃくねつ》ノ華《はな》』。……灼熱ノ、華。  しどけない裸の上半身といい、トロン、と歪《ゆが》んで見える顔つきといい、胸の辺りに掲げたナイフといい、確《たし》かに耽美《たんび》、では、ある、けれど、いかんせん、なんというか、句読点でも、ごまかしきれない、というか、 「……へったっくっそっ、だ、なあぁぁぁ〜……」  ああ、言っちゃった。  しかし兄妹の情があろうとも、個性という言葉を使おうとも、ごまかしきれないほどにへたくそなのは事実だった。どう言いつくろっても、これは人様にお見せできるレベルではない。ネット社会を舐《な》めるなよ、これではさぞかし辛辣《しんらつ》な意見で袋叩《ふくろだた》きにされていることだろう。掲示板は原型を留《とど》めないほどに荒らされ、伊欧の人格さえ否定する書き込みがびっしりと連なっていることだろう。壁紙《かべがみ》だって勝手にグロ画像に変えられてしまったりしていることだろう。管理者パスさえ盗み出されて、伊欧には削除も編集《へんしゅう》もできなくなっていることだろう。そして思うさま叩きつけられる罵倒《ばとう》、中傷、からかい、嘲《あざけ》り——NO! 想像するだに耐えられない! 「へ、へたくそにはへたくそだけど、俺《おれ》は伊欧を応援するぞ!」  高浦は指をパキパキ鳴らしてキーボードを引き寄せつつ、掲示板の荒らし書き込みの中に一輪《いちりん》の花を咲かせてやるべくキミノメモミミモをクリックした。  が。  投稿者 妖姫/涙夜サマのイラ、すてきすぎますぅ〜☆ ウチのサイトにイメージSSを載せたので見に来てくださいませ〜♪ 涙夜サマへの貢物《みつぎもの》ですので〜〜〜▽▽▽▽[#「▽」はハートマーク]  投稿者 お豆腐丸/キャ〜〜〜〜鼻血ブーですわ〜〜〜〜(死)!!!! ウチのサイトからリンクを貼《は》らせていただきましたよおおお〜〜〜〜(爆《ばく》)!!!! あっ言い忘れてましたけど初めましてですぅ〜〜〜〜〜〜ぐはっ(吐血)!!!!  投稿者 凍月闇華/マジデマジデ涙夜ノイラミテナイタヨ・・・・マジオヤトカチョウムカツクケド涙夜ノイラミテルトホントスクワレル・・・ナンデアタシ、コンナニ・ナミダ・デルン・ダロ・・・・・?  ——云々《うんぬん》。正気だろうか。  ☆やら♪やら「きゃー! ジタバタ! アセアセ! 死!」という感じの顔文字やらが乱舞《らんぶ》するその掲示板には、恐るべきことに、涙夜画伯のファンが押し寄せているのだ。思わずお豆腐丸さんの書き込みに残されたおうちマークのURLを踏み、サイトを見に行って浮かんだ言葉はただひとつ。 「……類友、かぁ……」  残念ながらお豆腐丸さんも、涙夜クラスの画伯であった。つまり、同じようなレベルでサイト作りを楽しんでいる同志、褒《ほ》め合いで仲良く気持ちよく参りましょう! ……ということなのだろう。いわゆる『女の世界』はこんなものなのかと思う反面、ここまで馴《な》れ合いの世界に「あの」伊欧《いお》が身を置いているというのも、なんだか信じがたい気もしてくる。  しかし、スクロールして現れた涙夜の書き込みを見る限り、涙夜画伯のノリノリ具合を否定することはできなくなった。  投稿者 管理人☆涙夜/いつも偽愛《ぎあい》パラノイアに来て下さるミナサン、涙夜主催の初☆オフ会のお知らせデス! 来来週の日曜日《にちようび》、涙夜とお話してくださる方を大募集! 「だ——大募集、だとお!?」  穴が開くほどモニターを見つめ、やがて高浦《たかうら》は頭を抱える。  これは……由々《ゆゆ》しき事態ではなかろうか!?      *** 「うーむ……どう妨害すればいいかなあ……」  優雅《ゆうが》な休日、土曜日の朝。  高浦は光溢《ひかりあふ》れる広大なリビングを一人で占有し、お手伝いさんの淹[#「淹」は底本では「入」]れてくれたミルクティを優雅にすすっていた。しかしお坊ちゃまの内心は、妹のことで少々|曇《くも》りがちである。  今時、ホームページを持つことがいけないなどと言う気はない。ただ、そこで出会った有象無象《うぞうむぞう》と実際に会うというなら話は別だ。おかしな事件はいくらも起きているし、参加表明していた妖姫さんやお豆腐丸、凍月闇華さんの身元だって定かではない。そもそも名前の読み方もわからない。もちろん、身元を調《しら》べられるものなら調べるが、というか調べたいが、さすがの高浦でも相手が完全な見知らぬ他人となれば手に余る。 「伊欧が自分で行く気をなくしてくれれば一番いいんだけどなあ……」 「あ〜らなんのお話ィ? 伊欧《いお》がどーしたってぇ?」 「あうっ!」  キッチンから現れた伊欧の母、麗子《れいこ》のプライド——耳からぶら下がる巨大なシャネルマークに日差しが反射し、高浦《たかうら》の細い目を奇跡的に射った。 「……あたしの美貌《びぼう》、眩《まぶ》しすぎたァ?」 「ご……ご説のとおりで……」  ハリウッドにでも歩いていそうな長身美人には間違いないのだ。ちなみに似ている芸能人はトレイシー・ローズである。  気だるげに高浦の隣《となり》に腰かける麗子を横目に、お手伝いさんは「フン、そこは奥様の席だよ!」と紅茶のポットを下げてしまった。このあたり、なかなか複雑な人間模様をみせているが、麗子はまったく動じない。というか、とっくの昔に自分用のコーヒーを自分で淹《い》れて手に持っている。 「今|真一《しんいち》くん、伊欧の話してたでしょ? ねえねえなんなの? あの子ったらますますあたしになつかなくなってさあ、かわいくないったらないのよねえ〜、誰《だれ》の子宮から生まれ出《い》でたと思ってるのかしら。そのくせ、学校に呼ばれて怒られるのあたしでしょ? あの子ってばこないだ久しぶりに学校にいったと思ったら、担任の先生のデスクの引き出しに〈呪《のろ》いの六本指カエルの卵〉をぎっしり詰めたんですってぇ〜、も〜恥ずかしいったらないわよね〜〜〜」 「いやあ、僕的には退学にならないあたりが驚《おどろ》きですなあ」 「ホホホ、それが高浦家クオリティよ!」  あはは、ホホホ、と多少空々しい笑い声が吹き抜けの天井《てんじょう》にこだましたそのとき。 「ひっ……!」  ガチャン——息を飲むような悲鳴と食器が割れる音がして、高浦と麗子はほぼ同時に背後を振り返った。意外と気が合っている二人の視線《しせん》の先で、お手伝いさんが腰を抜かし、あわあわと震《ふる》える指を戸口へ向けている。  そこに音もなく立っていたのは……全身黒ずくめの小さな不審者《ふしんしゃ》。 「……人の顔を見るなり悲鳴を上げるとは無礼な奴《やつ》ね。貴様には早老の呪い・特盛りをくれてやるわ……くらえっ、アンチ・コーキューテン!」  不審者はくわっ、と呪いの指サインをお手伝いさんに食らわせ、漆黒《しっこく》のケープをばさりと払った。静かな土曜日《どようび》、眩しい午前中の日差しの中で出会ってしまうには、少々|刺激《しげき》の強すぎる御姿だ。だがその危ない人物こそ、 「あーら伊欧じゃないの。明るいところで久しぶりに見たわ」 「い、伊欧……」  麗子の娘であり、高浦の妹であった。紛《まが》うことなき、血縁者《けつえんしゃ》である。  腰まである黒髪をケープに垂らし、伊欧は見るたび凄《すご》みを増す険しい表情で母と兄とを睨《にら》みつけている。丸みを帯びた白すぎる頬《ほお》に、どこか危ない底なしの猫目。外国生まれの子猫を思わせる小柄な美少女ではあるのだが—— 「……ふん、馴《な》れ馴《な》れしく私の名前を呼ぶとは……それは名前に力を通わす我々|魔女《まじょ》への挑戦かしら……? 灼熱《しゃくねつ》の釜《かま》の底で永劫《えいごう》の苦しみを与えてやってもいいのよ……?」  ——いかんせん、言動がこれだ。と、 「ぶ、ブフッ……ゴホン! ゴホゴホ!」  いけない。高浦《たかうら》の脳裏には昨夜見た『灼熱ノ華《はな》』が蘇《よみがえ》り、思わず吹き出しそうになってしまう。間一髪、咳《せ》き込んだフリでごまかすが。 「お兄ちゃん、身体《からだ》の具合が悪いのね……ククク、効いてる効いてる……」 「き、効いてないっつーの……とりあえずまあ、ずずいとこっちへ。パンが欲しいか? 紅茶が欲しいか? なあ、ちょっとお兄ちゃんと、人間同士の話をしようよ?」  高浦は気を取り直し、おずおずと妹の顔色を窺《うかが》ってみる。しかし、 「……ケッ」  終了。前の一件以来、すっかり兄としての信用を失っているのだ。  しょんぼりと落ち込む高浦の横をつかつかと通り過ぎ、伊欧《いお》は麗子《れいこ》のバックを取った。 「ちょ、ちょっとなによ……変なことしないでよ? 美容院行ってきたところなんだからあ」  伊欧も母親に信用されているとは言いがたい。 「フン、おまえのパーマネント如《ごと》き、おタマの後ろ足程度の興味《きょうみ》もないわ!」  後に分かったことだが、この頃《ころ》伊欧は、おたまじゃくしを育てるのに凝《こ》っていた。そしておもむろにズイ、と手の平を麗子に突き出し、伊欧は呪《のろ》いの言葉でも吐くかのように、低い声で静かに囁《ささや》く。 「……お小遣い、ちょうだい。……三万で勘弁してやるわ」  その瞬間《しゅんかん》、 「……お小遣いですって?」  麗子の眼差《まなざ》しからラテン系ノリの軽薄《けいはく》さがかき消えた。かわりに灯《とも》ったのは——海千山千《うみせんやません》の修羅場《しゅらば》をくぐった、シングルマザーの度胸星。 「ひーえぇぇー……」  現役思春期魔女と、最終進化系最強魔女の対決である。蚊帳《かや》の外に放り出されたお坊ちゃまは、年配のお手伝いさんと手を取り合い、震《ふる》えながら二人を見守ることしかできない。 「……あなたの口座には毎月五千円、振り込んでやってるはずだけど……?」 「今時五千円ぽっちで足りると思ってんのかこの金食いババア。その下らない耳の金ピカでも売っぱらって来い」 「……大人《おとな》をなめんじゃないよクソガキ……この金ピカはあたしの生きてきた証《あかし》なんだよ……」 「毎月支払われてる『私の』養育費三十万、ごっそりこっちの口座に移してやろうか」 「……なにぃ……?」 「……あぁん……?」  二人のバックに灼熱《しゃくねつ》ノ華《はな》——もとい、超高熱の青い炎が静かに燃《も》え上がるのを高浦《たかうら》は見た。鈍い確信《かくしん》は胸騒《むなさわ》ぎ。このままでは二人の魔女《まじょ》に、高浦邸が破壊《はかい》されてしまう。「ぼ、ぼっちゃま……」お手伝いさんも固く目を閉じ、いささか頼りない御曹司《おんぞうし》に取りすがる。 「うわあ〜どうしよ、超こわい……いや、待てよ……」  そのときだった。不意に疑問が頭をよぎる。  伊欧《いお》はその小遣いを、一体何に使おうとしているのか。確《たし》かに伊欧は怪しげな秘薬や趣味《しゅみ》の本で散財している様子《ようす》はあったが(高浦|調《しら》べ)、今まで毎月の小遣いの他《ほか》に金を要求したことはない。  さては—— 「……第一あんた、いきなり三万も寄越《よこ》せって、一体なに買うつもりなのよ……」 「……服……」  ——オフ会か! ならば——意を決し、席を立つ。 「い、伊欧!」 「お兄ちゃんは黙《だま》ってて! 今はこのドドメ肉色女と話をつけなきゃいけないんだから!」 「いーや黙らないぞ! お小遣いならお兄ちゃんがくれてやる! だからほら、そんなケンカはもうお止《や》め! 女の子がドドメ肉なんて言葉を使っちゃいけません!」 「……えっ?」 「ちょ、ちょっと真一《しんいち》くん! あんまりこの子を甘やかさないでよ、どんどん付け上がってしまいにはあたしみたいになっちゃうわよ!」 「フフフ、望むところです、美しい方」 「まあ▽[#「▽」はハートマーク]」  などと言うのは口から方便にしても、だ。 「お、お兄ちゃん……それ、ほんとなの……?」  今までのツンケンした態度はどこへやら、伊欧はパチクリと目を瞬《しばた》かせながら、パタパタと高浦の許《もと》へ小走りに駆け寄ってくる。彼女が野生動物なら、多分《たぶん》大人《おとな》になるまで生きてはいられまい。 「ああ、本当だとも。俺《おれ》はずっと前から伊欧に洋服を買ってあげたいと思っていたんだよ。三万円で足りるのかい? もうちょっと色をつけようか」  ちなみにこの男、幼少時のお年玉からすべて自分で管理しており、貯金の額《がく》はン百万。小さなゲーム会社の給料でいえば、年収の軽く三年分(税込)はある。 「……なんで私にそんなに優《やさ》しくしてくれるの……」 「それはだな、お兄ちゃんが反省したからだ。前に伊欧《いお》とケンカをして、『ふけつ』って言われただろ? あれからずっっっと考えていたんだよね……ああ、なんて俺《おれ》はふけつ野郎なんだろう、一時《いっとき》の気の迷いとはいえ、異性と交際したいだなんて……無知で、卑俗で、矮小《わいしょう》でちっぽけでくだらなくてンも〜〜〜どうしようもないな、と。……こんな兄だけど、許してくれる?」  ——激《はげ》しく適当な言葉を並べ立ててしまった。論理《ろんり》も理屈もあったものではなくて、さすがの伊欧も、こんな甘言にだまされてくれるとは思いはしないが、 「お、お兄ちゃん……! すばらしいわ、ようやく目を覚ますことができたのね! ……もう呪《のろ》ったりしない、許してあげてもいいわ!」  だまされた。  伊欧は麗子《れいこ》を汚物のように強引に押しのけ、高浦《たかうら》の隣《となり》に無理やり座ると、 「あのねお兄ちゃん……実は私、すごいことを考えていたのよ……お兄ちゃんにだけ、聞かせてあげるわ。今のお兄ちゃんにはその資格がある。……人間界には階梯《かいてい》があってね、人間はその魂の重力によって階梯を上がったり下ったりまた上がったりまた……」  ニコニコと上機嫌《じょうきげん》で頬《ほお》を薔薇色《ばらいろ》に染め、楽しげに会話をしてくれる。こんなこと、一体何ヶ月ぶりだろう。うん、うん、と伊欧の声を聞きながら、高浦は目頭《めがしら》を指で押さえた。  かわいいかわいい妹よ。お兄ちゃんはおまえのために、大きく思考の方向転換をしたよ……。  そうなのである。  オフ会なんてとんでもないと思っていたのだが、伊欧の様子《ようす》を見ているうちに、がらっと反対方向へ気が変わった。  オフ会に行きたくて服を欲しがるなんて、あの伊欧にしてみたら、ものすごい進化なのではないかという気がしてきたのだ。真っ暗な部屋で自己流|呪術《じゅじゅつ》の研究をしているのに比べたら、妖姫だろうがお豆腐丸だろうが、実在の人間と外でおしゃれをして会うなんて、百円ショップとエルメス本店ぐらいの差がある。  伊欧を外出させてくれ、おしゃれしたいと思わせてくれ、あの暗黒の世界から引っ張り出してくれるなら、オフ会でもなんでもありがたい。そんな風に思えたのである。 「俺はもう、急がないぞ……いきなり『男女交際はすばらしい!』、なんて言ったって、また嫌われるだけなんだから……まずは『お外でお友達と会う』ってとこから始めるんだ。それでいいんだ」  その辺りから慣《な》らしていけば、いつかは魔女《まじょ》も卒業して、普通の女の子になれるに違いない。  確信《かくしん》を持って強く頷《うなず》きながら、高浦は滑らかにキーボードを叩《たた》いた。なにはともあれ、 「……はじめまして涙夜サマ、いつもサイト見てますぅ、はあと、と……」  それはそれ、これはこれ、である。  実は今、正体を隠して妹とメル友になってみようと画策中なのだ。理由はただひとつ、おもしろそうだから。  まったりとした昼下がりに、カタカタカタ、と軽快な音が響《ひび》く。こうして高浦邸《たかうらてい》にひと時の平和が訪れた。  それからというもの、 「……お兄ちゃん……これ、どうかしら……?」 「おお、かわいいじゃん! ……カメラ、カメラ……」  すべては順調《じゅんちょう》すぎるほどに順調だったのだ。日曜日《にちようび》、繁華街《はんかがい》に慣《な》れない伊欧《いお》は罵《ののし》り合いながらも麗子《れいこ》に連れられ、高浦が渡したお小遣いをもって無事に買い物に行って来た。そして夜になってから真新しい服を着て母屋《おもや》に現れ、高浦にその姿を見せに来てくれさえした。  伊欧の趣味《しゅみ》らしく全身真っ黒尽《くろず》くめではあるが、胸元が四角に開いたパフスリーブのブラウスにリボン付きのビスチェ、膨《ふく》らんだフリルたっぷりのスカート、膝上《ひざうえ》まであるソックス。その筋の人間が見れば涙を流して喜びそうな、完全無欠のゴスロリ美少女の誕生《たんじょう》である。 「いいよいいよー、クルっと回ってみようかー、そうそうかわいいよーあはは楽しいなあ! ……あ、そうだ」  床に這《は》い蹲《つくば》ってバシバシと写真を撮《と》りつつ、高浦はあることを思いつく。伊欧のご機嫌《きげん》がいいのに乗じて、ひとつ役に立ってもらおうか。  さりげない風を装って起き上がり、 「なあ伊欧《いお》、実はまたおまえの魔術《まじゅつ》で占ってもらいたいことがあるんだけど」  なにげなく、切り出してみる。 「私の魔力がまた必要になったの? ……前回の恨みはまだ忘れてないけど、そうね……お兄ちゃんも反省したことだし、力を貸してあげてもいいわ」  もちろん、魔術だの魔力だの、そんなものを信じているわけはない。伊欧に期待しているのは、その敏感すぎる人間関係の洞察力である。 「実は今度、中学の時の同窓会をしようって計画しているんだ。そういう時って、カップルは誕生《たんじょう》するものなのかな? いや、ほら……それなら防止策を講《こう》じなければならないだろ?」  計画している同窓会のプランを、待ち合わせ場所から参加メンバー、計画のいきさつなどまでざっと説明すると、 「……よし。心得た」  伊欧は重々しく頷《うなず》いてみせた。そのまま振り返って手近な窓をガラリと開き、 「ポ——テ————ト——————ッッッ!」 「……わぁぁビックリ……」  頭の血管が切れるんじゃないかと思うような声で、唐突に飼い犬の名を絶叫。唖然《あぜん》とその背中を見つめて引きまくりの高浦《たかうら》をよそに、 「いち……に……さん……よん……」 「ワオーン! へっへっへっへ!」 「……五秒かかったわね……そして、おすわりか。なおかつ月は新月……クロスしてマッチして角度がこんぐらいで……風向きは……うん、なるほど」 「えっ!? 今の、占い!?」  窓の下には高浦ポテトが、相当あせったのだろう、鎖《くさり》を杭《くい》ごと引きずって来て、伊欧を見上げてピーンと背筋を伸ばしている。こんな風に呼ばれるなんてなにかもらえるに違いない。そんな期待を込めた目をして、微動だにせず。これは少々かわいそうだ。 「残酷なことするなよ〜。なあ、ポテト。おまえも苦労するなあ」  食べかけのスナック菓子を放ってやると、ポテトは一瞬《いっしゅん》、「これだけ……」と悲しそうな表情になるが、それでも健気《けなげ》にしっぽを振って菓子をくわえ、ご機嫌《きげん》で犬小屋へと戻っていく。  一方伊欧はすっかり自分の世界で、 「……ふむ、わかったわお兄ちゃん。……久しぶりの同窓会。場所はカラオケ。方角は北東。時間は六時。……これは相当、カップルの誕生率が高いわね」 「えっ! ほんと!?」 「……ただし。酔っ払ってゲロを吐く奴《やつ》や、その場の雰囲気をブチ壊《こわ》すような事件がなければ、の話だけど」 「な、なるほど〜……」  伊欧《いお》の含蓄ある言葉を心のメモに書き止めつつ、高浦《たかうら》はあらぬ期待にトキメク胸を押さえきれない。卒業式から早数ヶ月。なぜだか同じ程度にパッとしないはずの親友ばかりにステキな事件が起きている気がして、自分も一花、とあせるお年頃《としごろ》なのだ。      ***  そして、平穏《へいおん》な日々が静かに過ぎて—— 「ドリンクバーひとつ」 「かしこまりましたー。カップなどあちらにございますので……」 「しっ! ……はいはい、わかってますんで、行って行って」 「はあ?」  都内某所のファミレスである。  高浦はウエイトレスを追い払い、目立たぬようにそっと視線《しせん》をターゲットに向けた。ちなみにキャップに伊達《だて》メガネ、一応変装はバッチリのつもりだ。  そのターゲット……斜め向かいの席には、 「ドリンクバーひとつ」 「かしこまりましたー。カップなどあちらにございますので……」 「……見ればわかるわよ……それともこの魔女《まじょ》を愚弄《ぐろう》しているの? 時給二百円ダウンの呪《のろ》いをかけてやってもいいのよ?」 「はあ?」  言動はさておき、ゴスロリファッションで身を固めた黒猫系美少女・伊欧がちょこんと鎮座《ちんざ》している。  そう、今日《きょう》は『偽愛《ぎあい》パラノイア』の管理人・涙夜主催のオフ会の日なのである。 「……別にストーキングしているわけではないんだぞ、お兄ちゃんは伊欧のことが心配で……変な奴《やつ》が来ないとも限らないし……」  ブツブツ呟《つぶや》きつつもゴクン、と興奮《こうふん》の息を飲み、妹ストーカーは携帯カメラで伊欧の横顔をまずは激写《げきしゃ》。集合時間まで、あと十五分ほどある。伊欧は掲示板での約束どおり、目印として、テーブルの上に黒い髑髏《どくろ》のオブジェをどっかと置いた。ただまあ少々、デカすぎる気はするが——小ぶりのスイカほどはある。伊欧は相当、やる気らしい。  ドリンクを取りに立ったその後ろ姿を見つめつつ、 「さーて……最初に登場するのは誰《だれ》かなあ……?」  高浦はわくわくと、懐《ふところ》から秘密メモを取り出した。今日「来る」と参加表明していたのは、妖姫、豆腐、凍月闇華、それから一度も掲示板に書き込んだことはないけど参加させてほしい、と書いていたいわゆる一見《いちげん》さんが二人。  涙夜を入れて総勢六人では、かなり寂しいオフ会という気もするが、 「変な奴《やつ》が殺到するより、じっくり観察《かんさつ》できていいもんね」  ピーピング高浦《たかうら》にとっては逆にラッキーだったとも言えた。  なにはともあれ、伊欧《いお》は緊張《きんちょう》した面持ちでアセロラジュースを吸い、高浦は伊達《だて》メガネの奥から細い目を必死に見開き、迫り来る集合時刻を待つ。  自動ドアが開いて若い女が入ってくるたび、伊欧は顔を強張《こわば》らせて、それでも必死にさりげなくテーブルの髑髏《どくろ》をアピール。高浦はできるだけ背中を丸めつつ、視神経がちぎれる寸前まで横目を向いて、それらしい客の様子《ようす》をチェック。  しかし。 「……まーたはずれか……ていうか、もう時間過ぎてんじゃん」  伊欧の髑髏を見てギョッと驚《おどろ》いた顔をする客はいくらもいたが、「もしかして涙夜サマですかぁ〜〜〜!?」と話しかけてくる奴はまだ現れない。伊欧もなんとなく居心地《いごこち》悪げに、周囲をキョロキョロ見つつ、おかわりのドリンクを取りに立つ。 「……みんなだらしないなあ、伊欧の奴、参加者の連絡先なんかは……聞いてなさそうだよなあ……」  やがて焦《じ》れ焦《じ》れと兄妹が待つこと、三十分。 「おっ、今度こそ……っ……なんだ。……違ったか」  幾度目かもう数え切れない期待はずれに、高浦はがっくりと肩を落とした。伊欧も深い息をつき、足をブラブラと揺らし始める。あれは待ちくたびれた時の癖《くせ》だ。幼い頃《ころ》、季節の挨拶《あいさつ》に高浦家を訪れた伊欧は、話し込んでいる麗子《れいこ》を待って、よくあんな格好をしていた。そして手持ち無沙汰《ぶさた》だろう、と、高浦が菓子やケーキを渡してやると、 『わあ……お兄ちゃん、いいの? 伊欧に、これ、くれるの?』  天使の笑顔《えがお》で飛びついてきたものだ。ああ……あの頃はまだ、伊欧も魔女《まじょ》を始めてはおらず、年中無休で愛らしい妹だった。 「……伊欧の奴、待ちくたびれてるんだろうなあ……さぞかし不安だろうに……」  小さな頃の伊欧を思い出し、高浦の胸が少々痛んだ。伊欧はひとりぼっち、慣《な》れない騒《さわ》がしい場所で、しょんぼりとうつむいて髑髏の眼窩《がんか》を撫《な》でている。と、 「……どうして誰《だれ》も来ないの……? ……とうっ」  唐突にその眼窩に、ずぼっ、と二本指を突き入れた。そしてなにを思ったか、そのまま巨大髑髏をグググ、と持ち上げ、 「おっ、重いわ……っ!」 「当たり前だよ、伊欧……! ああ、指が……っ」  歯をくいしばってしばらく頑張るが、やがて耐え切れなくなったのか髑髏をテーブルに取り落とす。そしてその二本指をじっ……と見つめ、 「……見えた……」  唇を噛《か》んで、しょんぼりと呟《つぶや》いた。 「……当日・面倒《めんどう》になって・行くのを・やめる・ほぼ・全員……か。……ひどい……ひどい……妖姫さんも凍月さんもお豆腐丸さんも……ひどい……来るって言ってたのに……もう誰《だれ》も信じない……人間なんか大嫌い……そうよ……人間なんか……信じた私が悪いんだ……だって、人間、なんか、全員……」  その全身から不穏《ふおん》な漆黒《しっこく》のオーラが立ち昇るのを見たのは、高浦《たかうら》一人だけだっただろうか。伊欧《いお》はくわっ、と顔を上げ、力いっぱい反《そ》り返り、 「ふ・け・つ・よぉぉぉ—————っっっ! せいぜい卑俗な生殖行為にでも励むがいいわっ、しょせん愚かな泣き虫ピエロ、我が高邁《こうまい》なる理想郷に足を踏み入れる覚悟完了せし孤高の友とは七度死んでも出会えないのよっ、私は一人で、ボロ雑巾《ぞうきん》の如《ごと》く惨めで孤独な死に様を晒《さら》すわよっ、そうでなければ魂の階梯《かいてい》を上れないのならそうするわぁ———っ!」  うわあ、変な人……。  誰もがそう思ったのだろう、そこそこ盛り上がっていた午後のファミレスは、一人の危ない人の出現によって一瞬《いっしゅん》にして気まずい沈黙《ちんもく》のドン底へと叩《たた》き落とされる。 「こ、これは……いかん!」  立ち上がったのは、高浦だった。キャップと伊達《だて》メガネを意を決して剥《は》ぎ取り、 「伊欧! 公共の場で独り言を言ってはだめだあ!」 「えっ……!? お兄ちゃん!?」 「すいません! こっちのテーブルに移ります!」  ウエイトレスに決然と一言、伊欧の隣《となり》にどっかと腰掛ける。 「お兄ちゃん……なんでここに……」 「いいか、伊欧。落ち着いて聞いてくれ」  そう——覚悟なら完了していた。この不幸な生まれを背負ってしまった妹の未来のためになら、少々の痛みぐらい、代わってやることに迷いはない。  ……たとえ自分が嫌われても怒られても、伊欧が人間全員を嫌うよりは、ずっとずっと、ず〜っと、いいのだ。 「実は……実はな、俺《おれ》はおまえのホームページを見て、このオフ会の情報を掴《つか》んでしまった。でも昨今、こういうきっかけでの妙な事件が多いだろ? だからどうしても心配で心配で……」 「え……えっ……えぇぇ!?」  伊欧は半ばパニック状態で、死にかけた金魚のように、小さな口をパクパク開いている。言ってしまうならこの隙《すき》だ。 「だからすまん! 今日《きょう》は中止になりました、と、オフ会参加者全員に、俺からメールを出してしまった!」  ——もちろん、嘘《うそ》である。だが、これでいい。  伊欧《いお》が人間嫌いになってしまうよりは、自分ひとりが恨まれた方がよっぽどマシなのだから。 「……な……ん、です……って……」 「ごめんよお」 「ご、ごめ、って、そ……そんなの……あんまりよぉぉぉっ! すっごく楽しみにしてたのにっ、畜生、呪《のろ》ってやる———っ! 食らえっ、悪魔《あくま》の毒毒|髑髏《どくろ》の呪いぃぃぃぃっ!」 「ふがっ!」  呪いというかなんというか、伊欧は卓上の髑髏をブン回し、兄の顔面を殴り飛ばした。そして、 「う……うえええ〜〜〜〜ん、お兄ちゃんがいじめるぅぅ〜〜〜〜〜!」  大きな声で泣き伏したのだ。座席から滑り落ちそうになっていた高浦《たかうら》はしかし腹筋でなんとか起き上がると、呼び出しボタンをポチリと押す。 「はい、ご注文は」 「チョコレートパフェをひとつ。大至急で」 「季節のチョコパルフェでよろしいですね。ちなみに大至急とかはできません」  そう言われつつも、店内一の危ない客の下に、追加注文が届くのは素早かった。 「ほら、伊欧。食べな、好きだろ?」 「ふええ……っく、うっく、」 「伊欧の大好きな、真っ黒|闇色《やみいろ》チョコソースだ」 「ひっく、うぅ、うえぇ」 「血色《ちいろ》のいちごちゃんも乗ってるよ」 「……うっ、……うえっ……、ふえ……」 「ぜーんぶ一人で食べていいんだ。思うさま、このパフェの世界を壊《こわ》すといい。だからね、ほら、さあ」  なんとか懸命《けんめい》になだめつつ、顔を真《ま》っ赤《か》にして泣き続ける伊欧の小さな手にスプーンを持たせる。すると、 「……くすん……はぐ」  伊欧はふくれっつらながらも、生クリームをちまちまと舐《な》め始めた。その様子《ようす》をじっと眺めつつ、変態兄貴は殊勝に頭を下げて見せる。 「本当に悪かったよ、機嫌《きげん》直してくれよお」 「……やだ。……ひっく」  伊欧はスプーンでパフェを食べ進め、口の回りにはチョコソース、頬《ほお》は涙でベトベトという、ちょっとものすごい形相《ぎょうそう》に成り果てた。機嫌を損ねずに拭《ふ》いてやるにはどうしたらいいかと思案するが—— 「あ、黒い髑髏《どくろ》……」  ——その声に、反射的に高浦《たかうら》は地味顔を跳ね上げた。  そこに立っていたのは、 「……あの、もしかして……偽愛《ぎあい》パラノイアのオフ会のテーブルはここですか? 僕、地下鉄の出口で迷っちゃって、遅刻しちゃったんですけど」  一見、ボーイッシュな美少女に見えたのだ。  だが、だが、だが……? 「あれ……なんか、驚《おどろ》かせちゃったかな? そ、そーですよね……僕、その……男なんです……隠しててすいません! ……もしかして、怒ってます? でもでも! 涙夜サマの超ステキイラストに魅《み》せられた仲間の一人であることに嘘偽《うそいつわ》りはないですから」  ぴょこん、と新人アイドルなみの必死さで頭を下げ、上目遣いでこちらを見るこいつ。  声も出せないまま、高浦はゆっくりと、傍《かたわ》らに座る妹を見た。  伊欧《いお》はズルズルの顔のまま、きょとん、と大きな猫目を見開いていた。細目の遺伝子が表出しなくてよかったね——などと思っている場合でもなく、パフェまみれの唇がなにか言いたげに小さく開き、 「う……ぅ……」  ……伊欧は人語を失っていた。サイトの常連が男だったのがショックだったのだろうか、それとも自分のファンが現実世界に出現したのが嬉《うれ》しかったのだろうか。 「すいませんほんと、遅刻するわ男だわ……申し訳ないです、なんだか」  伊欧の存在にいまだ気づかず、闖入者《ちんにゅうしゃ》はおずおずと高浦に微笑《ほほえ》みかけてくる。そのふっくらとした色白の丸顔。天然|茶色《ちゃいろ》の優雅《ゆうが》な巻き毛。瞬《まばた》きするたびに音が聞こえそうな長い睫《まつげ》。ピンク色の薄《うす》い唇。……ネカマ、と斬《き》って捨てるには、おもしろすぎる「美少年」だった。申し訳ないが、こんな事態でなければ相当笑える。この現代日本で、男のバサバサ睫毛《まつげ》が一体なんの役に立つんだ。  それでも高浦は、こみ上げる色々な思いも言葉もすべて飲み込み、 「あのぉ〜……き、君の、ハ、ハンドルネームは?」  なんとか穏当《おんとう》に尋ねてみるが。 「こどく、です」  少々恥ずかしげに返された答えに覚えはなかった。こどく? そんな奴《やつ》いたっけか、と首をひねる高浦の様子《ようす》に気が付いたのだろう。美少年は顔を近づけてきて、ことさらゆっくりと説明してくれる。 「……凍る月、闇の華、と書いて、僕の場合は、こどく、と読むんです……」  読むんです……と言われても。納得しきれない高浦を尻目《しりめ》に、美少年は楽しげにキョロキョロと辺りを見回す。 「他《ほか》の方はまだなんですかねえ、涙夜サマはいらしてます? そうそう、妖姫さんとは僕、特にお会いしたくて。あの方、すごくカキコおもしろいから……あ」 「……ぅ……」  ルンルン、と浮かれて周辺状況の指差し確認《かくにん》をしていた人差し指が、ピタリ、と止まった。その指の先で、黒い小さな生き物が、スプーンを握ったまま硬直した。  ちんまりと座って顔中をチョコパフェにしたネコ型|魔女《まじょ》と、天使の巻き毛をもつオタク少年——そんな二人が、ついに出会った瞬間《しゅんかん》であった。 「あの……あの、オフ会の、参加者さん、ですよね……? ……お、お豆腐丸……さん?」 「……ぅ……ぅう……」 「じゃあ……妖姫さん……? 白虎さん? ……クロトワ大佐?」  ふる、ふるふる、と伊欧《いお》が首を振る。こく、こくこく、と美少年が頷《うなず》く。 「……じゃ、じゃあ……じゃあ、あなたは……」  高浦《たかうら》の目の前で、美少年の頬《ほお》が薔薇色《ばらいろ》に燃《も》え上がった。伊欧の瞳《ひとみ》はギラギラと、興奮《こうふん》しすぎの色で光った。そして美少年の指先が、ゆっくりと伊欧へ近づいていく。伊欧もまた、人差し指を美少年へ向け、ゆっくりと近づけていく。  接近しあう指と指。正体を明かしあうオタとオタ。やっと出会えたサイト管理人と常連のネカマ——指先同士をくっつけた瞬間、世界にはなにか新しい展開が、 「うっほほ——いっ!」  ——生まれていた、かも、しれなかった。  躍《おど》り上がった高浦が、触れ合う瞬間の指先の間に回転しながら割り込みさえしなければ。高浦は伊欧をそのままグイ、と押しのけ、シートに押し付けて背中で圧縮《あっしゅく》。 「うぐっ、お、おにぃ……っ」  苦しげな声は聞こえないフリで、迷うことなく一気に言い放つ。 「我が偽愛《ぎあい》パラノイア☆初☆オフ会に参加どうもありがとうっ! いやあ、男同士だったんだね、俺《おれ》たち」 「えっ……」 「涙夜でっす、おはつでっす」  一瞬にして三百メートルほど距離《きょり》を取ろうとした美少年の小さな肩を、逃すものかとガッシと掴《つか》む。そして笑い地蔵と称されるほどに細い目を限界まで見開き、 「きゃ〜っ、あせあせっ、ぐはぁっ! お会いできて光栄ですう〜! だけどオフ会は実は中止になりました。お豆腐丸さんが道中なぞの腹痛を起こしたため、我々だけ楽しむのも不謹慎《ふきんしん》だろうということになったのです。さあさあお帰りください」 「え、え、あの、でも……そ、そちらのかわいい方は……その、背中の後ろでひっくり返って苦しそうにもがいてる……」 「目の錯覚《さっかく》です。騙《だま》し絵です。これは不可視存在です。ではさようなら。……なに見てるんだよ、君、もしかしてストーカーかなにかかい!? このファミレスに俺《おれ》の魔力《まりょく》で灼熱《しゃくねつ》ノ華《はな》を咲かすぞお!?」 「ええっ!? そ、そんな……いや、あの……」  逡巡《しゅんじゅん》は、しかしわずかに一瞬《いっしゅん》だった。 「……すいませんでしたー!」  こどく君はデイパックを揺らし、あとは一目散。怯《おび》えた表情のまま背中を向けて、自動ドアの出入り口へと走り去って行く。 「覚悟なし野郎め……マルチーズみたいな笑顔《えがお》しちゃって……な、なんだよ」  後に残るは、あまりにも気まずすぎる兄と妹。 「なんだよ、そんな目で見るなよ……いやあ、連絡ミスがあったみたいだなあ……でも、まあ、帰ってくれたからよかったよね! ……ちょっと、なあ、そんな目で見るなっていってるじゃん。だって伊欧《いお》、おまえ……あれ男だぞ? いつも言ってるじゃないか、ほら、性欲なんかがあるから人間は堕落《だらく》するんだ、とか……そうだろ? な? お兄ちゃんはおまえのためを思って、こうやって日々がんばってるんだ。わかるだろ? ……ね?」  ——おそらく、ではあるが。  伊欧はちゃんと、兄の気持ちを理解してくれたようだった。帰り道はちゃんと二人で帰ってきたし、その後|罵倒《ばとう》もされていないし。  おそらくきっと、伊欧は正しくわかってくれたはず。  まさに自分の身を挺《てい》して、嘘《うそ》をついてまで伊欧の「将来」を守ってやった兄の気持ちも、身近に迫った変な美少年の魔手から守ってやったということも、そして、決して「親友どころか妹にまで男女交際の先を越されてなるものか!」などと思っていたわけではないことも。  たぶん。      *** 「……ほら、やっぱり!」  高浦《たかうら》が歓喜の声を上げたのは、それから一週間ほどが過ぎたある水曜日《すいようび》のことだった。  学校から帰宅し、夕方から開かれる同窓会に備えて着替えをしようとしたちょうどそのとき、ベッドの上に置かれていたステキなプレゼントに気が付いたのである。  大きめの紙袋に、手製のメッセージカード。もちろんそこには『いおより。』と書いてある。 「へえ、なになに……『今日《きょう》は同窓会ダネ☆ お兄ちゃんこれ似合うから、絶対着ていってね☆』かあ。うわあ、伊欧《いお》の奴《やつ》、ステキなことしやがって……どれどれ……おっと」  袋を傾けた途端《とたん》、中身が滑り落ちてベッドの上に散らばってしまった。デニムの短パンに、ランニング、それから小物が数点ある。さっそく合わせて鏡《かがみ》の前に立ち、 「うわーお、ちょっと露出度《ろしゅつど》高すぎ? だけど俺《おれ》ってこういうのが似合っちゃう男の子? だけどやっぱり……ちょっと……短パンの横からあらぬものがチラリズムしたりして? ……危険? ……ていうか……へ、変?」  角度を変えながら何度も己《おのれ》の姿を確認《かくにん》していたそのときだ。 「……クックックック……お似合いよ……安心して着るがいいわ……」 「ヒッ!?」  ドアの隙間《すきま》からこちらを覗《のぞ》く、昏《くら》い片目に気が付いた。深遠なる闇《やみ》を秘めた、魔女《まじょ》の片目である。 「い、伊欧? ……おまえ、お兄ちゃんの着替えを覗きたいのか? それはちょっと、危ない趣味《しゅみ》だぞ」 「……それ、ちゃんと着てね……? 今日《きょう》、着て行ってちょうだいね……?」 「え? あ、ああ。……うん。もち、そうするよ。そうだよな。伊欧がせっかくプレゼントしてくれたんだもんな。俺はどんなトラブルも恐れず、こいつをばっちり着こなしてみせる!」 「……それを着て、せいぜいステキな恋でもなんでも見つけるがいいわ……」 「え、えー? いやあ、俺は恋とかそんなのは……って、あれ?」  照れて頭を掻《か》いている隙《すき》に、危ない視線《しせん》はかき消えていた。ドアの向こうを確認してみるが、長い廊下にはすでに人の姿はない。……足音さえもしなかったはずだが。  不思議《ふしぎ》そうな顔をして一瞬《いっしゅん》首をひねるが、しかしすぐに、高浦《たかうら》は鏡に向かって鼻歌を歌い出した。やっぱり妹はいいものだ、あのときのお小遣いを残しておいて、兄にプレゼントを選んでおいてくれたのだろう。  これからも、伊欧のためになら、どんなことだってしてやろう。うん、そうしよう。  心の中で熱《あつ》く誓った高浦は、しかしまだ気が付いてはいないのだ。さきほど袋から服が滑り落ちたとき、一緒《いっしょ》に落ちてベッドの下に転がってしまったモノ——小さな妹が真剣に、怨敵《おんてき》必殺《ひっさつ》の呪《のろ》いをかけた、ドス黒いわら人形の存在を。  そいつには、オニイチャンという名がついていた。 [#改ページ]  あとがき  用事があって走ろうとしたら、四歩で足がもつれました。微熟女《びじゅくじょ》・竹宮《たけみや》ゆゆこです。雨が降ると右ひざが痛みます……。  こんな私ですが、この梅雨時《つゆどき》、台所て食べ物を腐らせることに関しては誰《だれ》にも負ける気がしません。黒いの? 青いの? どんとこい。糸引き? 異臭? 任せとけ。  液状化した大根ぐらいでは、もはや私の心を揺さぶることはできないのです。食べることさえ厭《いと》わない——そんな気分の日もあります。  迷→決→食→酸→腹→壊→下。  そんな結果を招く日もあります。  さて、『わたしたちの田村《たむら》くん2』を手にとって下さった皆様。本当に本当にありがとうございました。心からお礼を申し上げます。  田村くんとのねっとり濃密《のうみつ》なひとときは楽しんでいただけましたでしょうか? この本とともに少しでも楽しい時間を過ごしていただけたなら、それ以上の喜びはありません。  そして、これまで好きの嫌いのと、臆面《おくめん》もなくブチ撒《ま》け続けて参りました田村くんのお話ですが、ここで一旦《いったん》終わり、ということになります。ひとまず区切りをつけさせていただき、終わりというか第一部完というか……とりあえず、一段落、です。  なので何事もなかったかのように、ある日しれっと続刊が出てしまうかもしれません。その時はどうか、笑ってお許し下さい。そしてこのあとがき部分を爆破《ばくは》してください。  私の曖昧《あいまい》な記憶《きおく》によると(脳内の薄靄《うすもや》をかきわけ)『うさぎホームシック』が「電撃《でんげき》hpSPECIAL」に掲載されたのが、確《たし》かちょうど一年前……だったはずです。  そのたった一年後に、二冊もの文庫という形にまとまり、そして自分が一番いいと思ったタイミングで区切りをつけることができたというのは、これ以上を望むべくもない最高の『一段落』なのではないかと思います。  このような結果に導いて下さった読者の皆様には、これからもっともっとおもしろい物語を創《つく》っていくことで、お礼に代えさせていただきたいと思っております。つたない筆ではありますが、見守っていただけましたら幸いです。  そして、興味《きょうみ》がある方がいらっしゃるかどうか微妙な線《せん》ですが——田村くんが一段落ということで、必然的に高浦家《たかうらけ》の変態兄妹物語も一段落です。  個人的には彼らには一生あのまま……独身のまま、高浦《たかうら》病院に院長&看護師として君臨していただきたい、そして近所で評判の危ない病院として名を馳《は》せていただきたい、などと思ってみたり。しみじみ嫌《いや》ですね……ピーピング院長と黒衣の毒々看護師……。  というわけで、『わたしたちの田村くん』はこれにてひとまず完、となります。  読んで下さった皆様、重ねてありがとうございました。いただいた応援のお声は、これからもずっと忘れません。また、今回もイラストをつけていただきましたヤス先生、腹具合でご心配ばかりおかけしました担当さま、お二方なしではなにをどうすることもできませんでした。どうもありがとうございました。  そう遠くならないうちに、再び皆様にお会いできることを願《ねが》っております。